松平頼学とは? わかりやすく解説

松平頼学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/09 01:38 UTC 版)

 
松平 頼学
時代 江戸時代後期
生誕 文化5年12月3日1809年1月18日
死没 慶応元年8月14日1865年10月3日
改名 哲丸(幼名)、頼学
戒名 智徳院殿慈行謙光大居士
墓所 東京都大田区池上本門寺
官位 従四位上侍従左近衛権少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶家定家茂
伊予西条藩
氏族 紀州徳川家支流西条松平家
父母 松平頼啓:大熊氏
兄弟 頼学、龐姫
正室一条忠良の娘・通子
側室:与志の方、山野井氏
靖姫、久松丸、銐丸、充千代、粒姫、悌姫、徳之丞、頼英徳川茂承
養子頼永
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松平 頼学(まつだいら よりさと)は、江戸時代後期の大名伊予西条藩の第9代藩主官位従四位上侍従左近衛権少将

生涯

文化5年12月3日(1809年)、西条藩の第8代藩主・松平頼啓の長男として誕生。

天保3年(1832年)閏11月25日、父の隠居により家督を継いだ。藩政においては『西条誌』20巻の編纂など、文武の奨励に尽力している。弘化3年(1846年)、本家に当たる紀州藩徳川斉順の死去に際し、隠居していた先代藩主の徳川治宝は西条藩から頼学を紀州藩主に迎えようとした。しかし、附家老水野忠央による治宝への中傷を交えた妨害と幕府の強い意向により、清水徳川家から斉彊を藩主に迎えることになった。

文久2年(1862年)11月21日、家督を五男・頼英に譲って隠居し、慶応元年(1865年)8月14日に死去した。享年57(満56歳没)。

系譜

  • 父:松平頼啓(1785-1848)
  • 母:大熊氏 - 法梁院
  • 正室:一条通子(1806-1884) - 智月院。関白左大臣一条忠良の娘
    • 長女:靖姫(1825-1846) - 成等院。松平頼永正室
    • 長男:久松丸(1826-1827)
    • 次男:銐丸(1829-1830)
    • 三男:充千代(1832-1834)
  • 側室:近藤氏(1815-1889) - りく。与志の方。玉蓮院
  • 側室:山野井氏
    • 三女:悌姫(1841-1843)
    • 五男:松平頼英(1843-1905) - 相続。のち子爵。
  • 養子
    • 男子:松平頼永(1827-1848) - 陸奥国守山藩主松平頼慎の三男。頼学の婿養嗣子。相続前に早世し、頼学の実子の頼英が相続。

脚注

  1. ^ 茂承の正室は、紀州家と縁深い伏見宮家伏見宮邦家親王の娘の則子女王であるが、元々は慶福(家茂)との縁談が進んでいた。しかし慶福が将軍家を継ぐことになったため立ち消えとなり、代わって紀州藩主になった茂承の正室となった。




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