松平康俊の家を継ぐ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 19:20 UTC 版)
天正元年(1573年)、水野忠分の五男として誕生した。天正14年(1586年)、徳川家康の異父弟である駿河国久能城主・松平康俊(久松松平家)が男子が無いまま没した。本来なら絶家となるはずであったが、康俊の生母である於大の方(勝政の伯母にあたる)の要請により、14歳の勝政は康俊の一人娘と結婚することが定められ、康俊の遺跡を継承した。 文禄元年(1592年)2月、知行地1500石を賜る。同年、文禄の役に際し名護屋城に赴いた徳川家康に同行した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも供奉した。慶長6年(1601年)、康俊の娘と婚儀を挙げるが、この際に家康より茶道具「山道の真壷」(一名・松嶋)を与えられている。慶長7年(1602年)10月、1000石を加増された。翌慶長8年(1603年)3月、従五位下豊前守に叙任された。 慶長19年(1614年)から翌20年(1615年)の大坂の陣にも参戦し、家康から鳥毛抛鞘の槍一対と床机を賜った。元和2年(1616年)8月、2500石を加増された。この時点での知行高は合計5000石で、これを近江国内において知行していたという。元和5年(1619年)8月に大番頭に任命された。
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