条約の締結と改正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 14:52 UTC 版)
「シュテッティン条約 (1630年)」の記事における「条約の締結と改正」の解説
1630年7月20日(グレゴリオ暦)以降、ポメラニア公国の官僚が起草していたスウェーデン・ポメラニア同盟第一稿はグスタフ2世に拒否された。第二稿はスウェーデンが要求する変更のリストとともに突き返された。8月22日(グレゴリオ暦)、スウェーデン・ポメラニア間の交渉が正式に始まり、グスタフ2世も9月1日(グレゴリオ暦)に自ら参加した。最終的な交渉は9月2日から4日にかけて行われた(グレゴリオ暦)。 合意がなされたのは8月25日(ユリウス暦)/9月4日(グレゴリオ暦)だったが、1630年7月10日(ユリウス暦)/7月20日(グレゴリオ暦)に遡って適用された。同盟は「永久」とされた。条約はフランツブルクの降伏(英語版)とシュトラールズント包囲戦に抵抗したシュトラールズントとの同盟も含んでいた。 その後、1630年8月30日(ユリウス暦)に「ポメラニア防衛基本法」(Pommersche Defensivverfassung)が、1631年に「宿営令」(Quartierordinnance)が締結された。スウェーデン王とスウェーデン軍の首脳部は公国の軍事について全権を握り、一方政治と宗教の権力はポメラニア公、貴族と各地の町に残った。公国の外交はスウェーデン王が行うとされた。これらの条約改正がなされたのは、ポメラニア貴族が公国の軍事権力をスウェーデンへ移転することと、スウェーデン・ポメラニア間の同盟を分離させることを堅持したためであった 。 条約ではポメラニアが年10万ターラーを提供すると定めたほか、スウェーデンの駐留軍4部隊への補給もポメラニアが行うとされた。
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