李熹公家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:59 UTC 版)
李太王高宗の父、興宣大院君李昰応の長男であった興王李熹の家系。併合時に恩賜公債100万円が賜与され、その利子と不動産の利益で生計を立てたが、財政は苦しく、李王家からの援助で補填せざるを得なかった。第二代公の李埈は1917年に急逝したが男子がなく、李堈の次男李鍝を養子として迎えた。1945年(昭和20年)の広島市への原子爆弾投下によって李鍝が戦死したため、子の李清が公を継いだ。李鍝公妃賛珠(朝鮮語版)は戦前から朝鮮で居住しており、その子孫も大韓民国に住居している。
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