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李協雨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/02 08:29 UTC 版)

李 協雨(イ・ヒョブ、朝鮮語: 이협우1921年または1923年[1] - 1987年8月11日)は、大韓民国政治家。第2・3・4代韓国国会議員[2]本貫慶州李氏[3]

経歴

慶北慶州内南面出身。1940年に大邱農林学校卒。満洲にしばらく行った後、1943年から1945年まで内南面農会技手・面書記を務めた。光復後は農林部穀物検査所検査員・慶州出張所検査員、慶州郡農業議員、大同青年団内南面団長、大韓青年団内南面五団副団長、内南面民保団長、自由党月城郡党委員長・組織副委員長、内南水利組合組合長、民主回復国民会議慶州支部常任代表委員[4]を務めた[2][1][5]

1987年8月11日、慶北慶州の自宅アパート老衰により死去。享年66[6]

不祥事

1949年から1950年までの朝鮮戦争の戦前・戦中に、右翼準軍事団体の幹部として内南面で少なくとも169人、一説200人以上の良民を共産主義者として虐殺した希代の悪人であった。また、1958年の第4代総選挙の前にも月城甲選挙区内で野党候補に対して多数の登録妨害事件を起こし、不正選挙の疑いもあった[1][5]

1957年2月、内南面虐殺事件の遺族の海兵隊員は被害者の土地などをめぐり、李を相手に民事訴訟を起こしたが、李は国防部に圧力をかけた結果、被害者遺族は告訴を取り下げた。しかし、四月革命以降の1960年6月16日、遺族75人は李およびその弟を殺人放火強盗などの容疑で大邱地方検察庁に告発した。検事の調査の結果、李は76人を殺害した容疑で起訴された。1961年3月6日、一審で死刑を宣告されたが、5・16軍事クーデターが起きると風向きも変わり、二審で無罪を宣告され、1962年6月28日、大法院により無罪が確定された。その後も別の9人を殺害した容疑でまた裁判にかけられたが、こちらも無罪を宣告されたため、李は1963年5月15日に自由となった[5][7]。なお、朴正煕時代に李を告訴した遺族会は北朝鮮への利敵行為を行ったとして、幹部数人はスパイの疑いで有罪判決を受けた。2010年にようやく無罪を宣告された[8]

エピソード

大邱農高時代の1937年・38年に朝鮮神宮奉賛体育大会の卓球日本式男子中等選手権大会や全朝鮮学生卓球大会に参加した[9][10][11][12]

前述の理由から選挙区の月城郡は「李協雨王国」と呼ばれたこともあるが、国会議員時代に院内活動は乱闘以外に特にしなかった[1][5]

1963年の第6代総選挙では民主共和党から出馬した[13]

脚注

  1. ^ a b c d 근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2025年4月1日閲覧。
  2. ^ a b 대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2025年4月1日閲覧。
  3. ^ (6)경주 이씨(慶州李氏)-1,424,866명” (朝鮮語). 서울이코노미뉴스 (2014年7月6日). 2025年4月1日閲覧。
  4. ^ 民主回復(민주회복) 국민會議(회의) 慶州(경주)·나주支部(지부)결성”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1975年3月11日). 2025年4月1日閲覧。
  5. ^ a b c d 임종금 (2015年6月15日). “2화. 무법천지 시대 희대의 악인 이협우” (朝鮮語). 경남도민일보. 2025年4月1日閲覧。
  6. ^ 前(전) 國會(국회)의원 李協雨(이협우)씨”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1987年8月11日). 2025年4月1日閲覧。
  7. ^ 刑事補償金(형사보상금) 三萬二千(삼만이천)원”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1964年1月9日). 2025年4月1日閲覧。
  8. ^ 48년 만에 '민간인학살 유족회' 재심서 무죄” (朝鮮語). 노컷뉴스 (2010年12月14日). 2025年4月2日閲覧。
  9. ^ 大熱戰展開(대열전전개)된 中等卓球大會(중등탁구대회)”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1937年10月16日). 2025年4月1日閲覧。
  10. ^ 城大主催卓球戰(성대주최탁구전)”. NAVER Newslibrary. 조선일보 (1937年10月19日). 2025年4月1日閲覧。
  11. ^ 男子卓球戰(남자탁구전) 海州金相薰優勝(해주김상훈우승)”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1938年10月15日). 2025年4月1日閲覧。
  12. ^ 十三度朝鮮(십삼도조선) 卓球順位(탁구순위)”. NAVER Newslibrary. 조선일보 (1939年3月26日). 2025年4月1日閲覧。
  13. ^ [인물로 읽는 울산유사(227)]6대 총선때 14표 차로 낙선, 재검표까지 했지만 판세 못뒤집어” (朝鮮語). 경상일보 (2016年11月20日). 2025年4月2日閲覧。



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