李傕政権
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興平元年(194年)、征西将軍の馬騰が李傕と関係を持とうとしたが、李傕がそれを拒否したために関係が悪化する。馬騰は双方の仲裁に入った韓遂と共謀し、長安に攻め上ったが、李傕はこれを撃退した。また、馬騰に呼応して益州から攻め上ってきた劉焉軍も撃退し、李傕の暗殺を目論んだ劉焉の長男劉範を逃亡中に殺害、共謀した次男劉誕も処刑した(四男劉璋は前年に献帝の命で、父の劉焉を説得するために益州に向かい、そのまま抑留されたので無事だった)。 李傕は馬騰らと争っている間に、東方で勢力を拡大しつつあった曹操・袁紹に危機感を抱き、彼らと対立関係にあった袁術・公孫瓚・陶謙等に献帝の名の元に爵位を与え、連携を図った上で包囲網を築こうとした。 李傕・郭汜は城内を分割して統治していたが、その統治能力は皆無といってよく、盗賊を取り締まるどころか、部下の好き勝手にさせて百姓に乱暴させた。そのため食糧の値段は高騰し、親が子を食い、子が親を食い、白骨や腐乱死体が街中に散乱して、道路に異臭が充満し、三輔の人口は激減した。また李傕は軍内でも同僚であった樊稠を、馬騰らとの戦闘中に捕らえた韓遂を見逃したとして殺害したため、弱体化した。
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李傕政権
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興平元年(194年)、征西将軍の馬騰が李傕と関係を持とうとしたが、李傕がそれを拒否したために関係が悪化する。馬騰は双方の仲裁に入った韓遂と共謀し、長安に攻め上ったが、李傕はこれを撃退した。また、馬騰に連呼して益州から攻め上ってきた劉焉軍も撃退し、李傕の暗殺を目論んだ劉焉の長男劉範を逃亡中に殺害、共謀した次男劉誕も処刑した(四男劉璋は前年に献帝の命で、父の劉焉を説得するために益州に向かい、そのまま抑留されたので無事だった)。 李傕は馬騰らと争っている間に、東方で勢力を拡大しつつあった曹操・袁紹に危機感を抱き、彼らと対立関係にあった袁術・公孫瓚・陶謙等に献帝の名の元に爵位を与え、連携を図った上で包囲網を築こうとした。 李傕・郭汜は城内を分割して統治していたが、その統治能力は皆無といってよく、盗賊を取り締まるどころか、部下の好き勝手にさせて百姓に乱暴させた。そのため食糧の値段は高騰し、親が子を食い、子が親を食い、白骨や腐乱死体が街中に散乱して、道路に異臭が充満し、三輔の人口は激減した。また李傕は軍内でも同僚であった樊稠を、馬騰らとの戦闘中に捕らえた韓遂を見逃したとして殺害したため、弱体化した。
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