木崎村浜浦谷内の編入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 19:33 UTC 版)
「新潟市の行政区域の変遷」の記事における「木崎村浜浦谷内の編入」の解説
濁川・南浜両村に隣接する木崎村はそもそも大新潟市構想に含まれていなかったが、両村の新潟市との合併の意思は、木崎村の態度を流動化させることになった。ただ、人口が約9,600人であったこともあり、残った四町村(葛塚町・木崎村・岡方村・長浦村)では最も合併に消極的であった。それが、どちらかといえば新潟市へ合併という雰囲気を生じさせてしまった。ところが、1954年(昭和29年)10月11日、県より残った四町村での合併計画案が公表され、それを受けて11月9日、新潟市議会議長より「これ以上北蒲原郡西部郷とは合併しない」旨の発言が出たことで、木崎村の新潟市合併がなくなり、四町村合併への参加(豊栄町の発足)となった。この時、南浜村に隣接している浜浦谷内・下大谷内の分村、新潟市編入に関する木崎村との約束が有耶無耶となり、1955年(昭和30年)6月23日には下大谷内から、7月4日には浜浦谷内から「豊栄町分町新潟市合併に関する請願書」が提出されたが、1956年(昭和31年)3月21日に豊栄町の定例議会は請願を否決した。豊栄町側は長浦村が合併できていない状態での分町で町の弱体化につながることを恐れていた。この対応に住民は業を煮やし、学童の同盟休校や南浜村の小中学校への転校などの手段にでて大問題に発展した。幾度となく調停を進めた結果、新潟市編入を全員が希望していた浜浦谷内は1960年(昭和35年)4月1日に編入が実現した。なお、意見が二分していた下大谷内は、それに先立つ1960年(昭和35年)2月25日の住民投票の結果、新潟市編入が規定の2/3を上回れず、豊栄町に残ることになった。
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