月光の象番にならぬかといふ
作 者 |
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季 語 |
月 |
季 節 |
秋 |
出 典 |
春の蔵 |
前 書 |
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評 言 |
飯島晴子が亡くなったのは2000年(平成12年)だから、もう亡くなって15年になる。飯島晴子は「馬酔木」の句会に夫の代理で出席したのが俳句を始めるきっかけだったとか。38歳の時だという。 その句は、いろいろの変化を見せるのだが、この一句と言えば、この「月光の」の句をあげたい。虚実のない交ぜになった不思議な世界である。 「象番にならぬかといふ」ところは現実にこういうことがあってもおかしくない。動物園の飼育係に、「君には明日から象の飼育係をやってもらうことになったから、まあ、象番だね」ということはあるかもしれない。でもそれが上五に「月光の」とあるから、現実からすっと別の世界へ入りこんでしまうのだ。 ポイントは「の」ではないかと思う。これが「や」で切れたり、「は」や「が」でつないでしまうとこの不思議な感じは消し飛んでしまう。いってみれば虚実を繋ぐ「の」なのである。 エッセイ集「葛の花」に晴子の自解が載っている。「『月光の象番』は、動物園で象の飼育係がバケツをさげて象舎を横切るのは見たが、あとは私の内部の迷路で、私自身も二度とたどることはできない」と、書いている。 私は、この句は完全にイメージ上の非写実の句だと思っていたので、逆に驚いてしまった。この句の持つある種のリアル感は、現実の象の飼育係の姿が背景にあったからなのかと思う。 見ることにこだわり、国土地理院の地形図を片手に人家のまばらなところを半日もかけて俳句のきっかけを探したという晴子のこだわりが、非写実の句の中にもリアリティをもたらすのだろうと思う。 天網は冬の菫の匂かな 晴子 写真:石川賢治「月光浴」 |
評 者 |
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備 考 |
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