時衆研究者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:20 UTC 版)
宗派史観に囚われることなく、時宗を時衆として認知し、中世社会にどれほど浸透していたかを粘り強く解き明かしている。わかりやすい文章と論理構造で、初期の時衆研究を牽引し、晩年まで『一遍聖絵』を中心に現役で新稿を発表し続けた。 貧困の時代を知る世代からみて、網野善彦らの賎民論にはリアリティがないとする。 教務の合間を縫って、夜行列車で鳥取と各地を往復し、時宗寺院の大部分を直接訪問している。単身でガリ版刷りの『時衆研究』を隔月で発刊していた。 観阿弥・世阿弥を史料通り「観阿」「世阿」とすべきと主張している。 坂井衡平の研究を見いだし、世に知らしめた。 いわゆる遊行派の創始を巡って、橘俊道、河野憲善と繰り広げた論争は研究史に遺る。論文中では河野を痛罵しながら、両者は友情で結ばれていた。
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