昭王の南征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/24 13:06 UTC 版)
昭王の南征 | |||||||||
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衝突した勢力 | |||||||||
虎方[9] 弦[5] |
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指揮官 | |||||||||
楚の君主[20][注釈 2] | |||||||||
戦力 | |||||||||
西方の6軍(師)[1] Xinと蔡
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不明 | ||||||||
被害者数 | |||||||||
甚大な被害 おそらく12.000以上[1] |
不明 |
昭王の南征(しょうおうのなんせい)は、昭王統治下の周と楚の間に起こった一連の戦闘である[13]。昭王が南征をしたということは、『史記』周本紀や『竹書紀年』をはじめとする文献に記載があり、また当時の金文にも南征を指し示したものが存在している。竹書紀年の記述によれば、南征は昭王16年から昭王19年にわたるもので、(おそらく)周側の失敗に終わり、昭王はその過程で死亡したともされている。その失敗は、周が攻勢から守勢へ転換するきっかけになったともされている[24]。
昭王は少なくとも二度、楚をはじめとする長江中流域の諸国・部族に対して大規模な親征を行い、当初は長江以北と漢江流域を征服した。しかし、最終的に周軍は壊滅的な敗北を喫し、昭王をはじめとして軍勢の半数以上が戦死し、征服した領土の大半を喪失したとされる[14][3]。この親征の失敗により、西周初期に行われた拡張政策は終わりを告げ、西周は外部からの侵略に対する防衛に専念せざるを得なくなった[24]。一方で、楚は事実上周からの独立をより堅固なものとして、中国で最も強力な国の一つへ成長し続けることとなった[25]。
背景
長江中流域

昭王の南征の舞台は長江の中流域であった。長江中流域は沼地帯や湿地帯、山岳地帯が広がっている一方で[3]、非常に肥沃で[26]、金[27]や銅、スズなどの鉱産資源も豊富に産出された。長江中流域の豊かな自然は、高度に発達した新石器時代文明をいくつも生み出したほかに[26]、中原の人々の関心も集めた。そのため、多くの北方文明は、鉱山の開発を目指し長江中流域への進出を試みている[28]。その中でも特に進出に成功したのは、一般的に初期の殷王朝と関連しているとされる二里岡文化に属した勢力とされている。殷は湖北省東部の全域とまではいかないが、紀元前1500年頃にはその広域を支配下に置いていたようである[29][30]。殷は盤龍城を拠点に、長江中流域を政治的・文化的に支配し[31]、長江中流域の鉱床を採掘して中原に位置する殷の諸都市に青銅製品を供給した[28]。代表的な鉱山として、黄石市大冶市の銅緑山や瑞昌市の銅嶺などがある[32]。後世の文献史料の記述によれば、殷は長江中流域に鄂や曾などいくつか小国を建国したとされている[33]。
そこから約100年後には、殷の覇権は衰えたようである。二里崗文化の影響を受けたとされる遺跡は紀元前15世紀後半から急速に衰退し始めたようで[31]、盤龍城も紀元前1400年以降に放棄されたとされる[34]。現在の岳陽市近郊に位置する銅鼓山など、残存していた二里崗文化の都市は、ほとんどがその地域色を露わにし、おそらく殷王朝からは独立したとされる[35]。紀元前14世紀までには湖北省東部における殷の覇権はほぼ喪失していたが、長江中流域では未だ殷王朝の覇権は健在であった。甲骨の記録によれば、湖北省には少数ながらも鄂や曾、楚といった殷に服属する国家が存続していたことや、南方の異民族に対して多くの軍事行動が実施されていたことがうかがえる。しかし、これらの軍事行動はおそらく成功も少なく、効果はわずかしか得られなかったため、殷王朝が南方の覇権を再び掌握することはなかった[36]。それでも、殷王朝の勢力が中華南部に存在し続けたことは、後の周王朝の南方への拡大にとっては非常に重要であった。
殷王朝の覇権の喪失は、長江中流域に政治的空白を作った可能性がある。考古学的には、二里崗文化の時代以降、長江中流域に文化的な統一性が見られず、大規模な中央集権的な権力が存在したという可能性は低いとされている[37]。殷王朝に代わって、強力な呉城文化が江西省から長江中流域にまで拡大し始めたが、おそらく呉城文化の人々が長江中流域を政治的に支配することはなかったとされている[38][39]。長江中流域に影響を及ぼす中央集権の存在がなくなったとはいえ、文化や技術が崩壊することはなく、むしろ殷の影響力が排除されたことにより、小規模ながらも高度に発達したその土地固有の文化を持つ国家がいくつか出現し、「この段階での文明の開花(a flowering of civilization at this stage)」につながったとされている[40]。外部勢力の支配からほとんど解放されたこれらの国家は、経済・技術・政治的に高度な進歩を遂げ[41][8]、軍事力も増強した[36]。後期の殷王朝に対して、長江の人々は目覚ましい回復と武力を示した[42]。
これらの長江流域に位置する国家のうち、楚もしくは「荊楚(荊楚は地方名ともされている)」[7][43]、虎方[4]、弦[5]の3国は周の昭王による南征に巻き込まれることとなった。しかし、これらの国家がどこに位置していたのか、どのような政治体制をとっていたのか、というのは考古学的な史料や当時の記録からでは明らかになっていない。これらの国家に関する以下の情報は、あくまでもある特定の解釈に基づいたものであり、すべて議論の余地があることを念頭に置く必要がある[9][44][45]。
- この3国の中で最も重要でかつ、おそらく最も強大であったのが楚であった。後世の楚の君主たちは、伝説的な存在である夏王朝の末裔を自称しているが、おそらく楚は殷の覇権が喪失したころに出現した、北方との強い繋がりを持つ土着民族連合の融合体であったと考えられている[7][46][45]。楚はもともと河南省南部の丹江沿いに定住していたが、ある時、おそらく昭王の南征以前には、湖北省東部の漢江西側の山岳地帯に移住したとされている[37][47]。移住後に、荊山近くに防備を固めた都市を建設した[48]。楚はいくつかの部族や小国を支配下に置く支配的な勢力にまで成長した[46]。楚の勢力拡大の結果、初期の楚の君主たちは「殷から何らかの形式で承認を受ける」こともあった[49]。
- 楚に比べると全く情報がない虎方は、殷時代の甲骨に名を残している政体(初期の虎方)と同名である。初期の虎方は、一般的に前述した呉城文化と関連するものとされている[50][51]。この初期の虎方が、昭王と戦った虎方と同一であるかは議論がなされているが[23]、呉城文化の崩壊は昭王の南征と同時期であり、ドナルド・B・ワグナーは呉城文化の終焉と周王朝の台頭は直接関係しているものという見解を示している[52]。昭王と戦った虎方は一般的に漢江[23]または長江[9]付近に位置していたと考えられている[注釈 3]。李峰は、虎方は非常に強力であり、昭王は楚よりもむしろ虎方を南征の対象であったという説を唱えている[53][41]。
- もし昭王の南征に関与した弦が、春秋時代に存在した同名の諸侯国と同一であるならば、現在の黄州区に存在していたとされる。それ以外についてはほとんど何もわかっていない[5][54]。
周と南方の関係
紀元前1046年頃、殷王朝は周によって滅ぼされ、長江中流域における殷の活動も突如終焉わってしまった。周は中原に新たな王朝を成立させた。長江流域の人々にとって、この新しく台頭した周の存在を認知していなかったわけではなかった。『史記』・楚世家の記述によれば、周が殷を征服する前に、楚の君主である鬻熊が、周の文王に服従したとある。ラルフ・D・ソーヤーは、鬻熊は殷王朝が崩壊しつつあることを理解していた、あるいは単に近隣の有力国家との良好な関係を望んでの服従であったとしている。いずれにせよ、鬻熊は周を有望な新興勢力と踏んで、友好関係を築き、周が殷王朝を滅ぼす際には、楚は弓矢を供給して周を支援している[49][55]。
しかしながら、楚の周への服従は「名目上のもの」に過ぎなかった。両国は距離が離れていて、楚の人々の独立意識も大きかった。しかし、楚の公式的な服従があまり効力のない同盟、あるいは不可侵条約以上のものでなかったということは、初期の周王にとって問題ではなかったようである。むしろ、新たに領地を征服する中で、南の脅威が払拭されるものとして有益であった[49]。楚と周の互恵的かつ平和的、そして協力的な関係は、成王の治世下でも維持されており、楚の熊繹は子爵に任命された[20][55]。
楚との関係のほかにも、周は長江流域に支配の土台を築いている。もともと殷に仕えていた国家、特に鄂と曾などを改めて封じ、その支配者となった[33]。周はまた、南方の鉱山へ通じる交易路を受け継いでおり、交易路は周にとって経済的に重要なものとなった。殷と同様に大規模な青銅生産を維持するために、南方の鉱山からの輸入に大きく依存していたようである[28]。しかし、長江中流域における周の文化的影響は弱かったようで、湖北省東部では、殷周革命ころのものとされる周の青銅器がほとんど発見されておらず、この地域に周の文化的影響がほとんどなかったことが示されている[56]。同時代の金文もその事実を裏付けるように、周は東方や北方への勢力拡大に重点を置いており、南方にはほとんど影響を与えなかったことを示している[57][58]。
前ぶれ

この状況が劇的に変化し始めたのが、昭王の治世であった。先王たちによって周の東西、北の三方の国境がほぼ確定すると、昭王は南方に目を向け、長江中流域を標的とした大規模な軍事作戦を開始した[59][29]。はじめは、周の現在の随州市付近における存在感を大幅に強化した[29]。そうすることで、周の封建下にあった曽と鄂は大きく勢力を拡大し、周の南方への勢力拡大における重要な拠点となった。特に曾はこの時期に侯爵へ昇格を遂げたとされている[60][61]。
昭王が南方へと積極的に進出した正確な理由はよくわかっていないが、歴史家たちはいくつかの説を提唱している。その一つには、周における鉱石の需要が絶えず増大していたという、経済的な理由が考えらている。昭王は長江流域の鉱山やその交通路を征服し、資源(銅など)とその運搬用の交通路を確保・活用を図ろうとしたのかもしれない[28][27][18][62]。実際に、「過伯簋」の銘文には、「過伯は王に従って荊を伐ち破り、金(銅を指す)を取得した」とある[62]。また南方の国家は比較的裕福であったことから、単に略奪を意図したものという可能性もある[18]。さらに、イデオロギーも戦争の一因となった可能性がある。周は自らを殷の正当な後継者とみなし、殷の領土すべてを統治する権利があるとして、昭王は殷がかつて治めていた南方の領土の回復を望んでいた可能性もある[3]。
一方、政治的な違いが原因となった可能性も指摘されている。ソーヤーは「殷の征服の畏敬」が薄れ始め、多くの周に服属していない国家が不穏な動きを見せ始めたとしている。これらの国のほとんどは周に対して貢物を送る程度の形式的な服従であったため、周への忠誠を捨てるのは容易であった[63]。チャールズ・ハイアムは、楚についても同様のことが当てはまったと考えている。楚は殷周革命後、急速に勢力を拡大し、影響力を増大させ、漢江と長江中流域の広大な地域を支配下に置いた。楚が勢力を拡大するにつれて、周王に対して反抗的になった[27]。楚の台頭と反抗的な態度に脅威を感じた、あるいは単に憤慨した昭王は、周の絶対的な支配権を再び確立するために、長江流域、後には楚そのものを侵略することを決意した可能性がある[8]。この解釈は金文や後世の歴史書が、周に対する反乱を理由に楚と胡坊の両方を非難しているという事実が裏付けている[64]。しかしソーヤーは、楚や他の国家を昭王が脅威とみなしたとしていても、周が長江流域への数度の侵略を通じて、第一の侵略者として行動したと指摘している[49]。
南征

昭王が自ら南征をしたという事実は、史記や竹書紀年などの文献史料だけでなく、当時の金文からもうかがえる[65]。史記・周本紀では、昭王が南方へ巡狩(この文脈では遠征を指す)にでたまま帰らず、長江の上で没したとある[66]。また、「胡応姫鼎」には(興の上の部分のうち、同が召になったもの+ふるとり+皿)王が楚を討ったとあり、この王は昭王と推定されている[62]。周の共王時代に作られたとされる「史墻盤」には「昭王は広く楚荊を安撫し、大いに南行した」と、楚への遠征を昭王の業績としている[62]。
南征は昭王16年に始まったとされる[11]。古本「竹書紀年」によれば、この年に楚荊を討ち、漢江を渡って、大きな兕(サイまたは水牛)に遭遇したとのみ記されている[10]。楚の属国が周の領土を攻撃したか[8]、昭王が先制攻撃を仕掛けたとされている。周の官吏であった伯買父は漢江の警備を命じられ、敵軍が周の防衛線を側撃したり、防衛線を迂回して脆弱な西部領土へ侵攻したりするのを防いだ[5]。一方、南方に位置する周の諸侯国、曾、鄂、方、鄧は視察を受け、戦争への参加を要請された[注釈 4]。周の王軍は曾に陣を敷いた[4][3]。そこから王軍と諸侯国の連合軍は長江以北を征服し、漢江を渡った。そこで昭王は吉兆と解釈されるサイ(兕)に遭遇したとされる[48]。周軍は漢江の26の楚の属国を征服した。その後、周は荊州に近い楚の首都を攻撃し占領した。その際、周は多くの戦利品、特に貴金属を獲得しており、南征の主な理由の1つが鉱石や略奪であったという説を裏付けている[55][18]。しかし、楚を滅ぼしたり占領したりすることができなかった、あるいはそうしないかったため、楚は力を復活させることができた。それでも周は漢江東岸と長江北岸の地域を完全に掌握することには成功しており、政治的・軍事的拠点として魯台山の要塞を築いた[69]。
これらの一度目の遠征が成功すると、周軍は他の南方の国家への攻撃を開始した。Scribe Yü指揮下の軍隊は弦に対して軍事行動を起こして成功し、一方Nanの君主は虎方への攻撃を指揮し、勝敗については諸説あるが[53][41]、おそらく勝利した[19]。これらの作戦は、前線基地の建設や方、鄧、鄂など南方の諸侯国の利用、外交的手腕による思い切った行動などを、十分に準備しながら計画されていた。例えば、秦の君主は、楚に対する軍事行動中に協力を得るために、河南省北部のFanへ派遣されている[5]。
昭王19年、昭王は再び漢江を越えて2度目の大規模な軍事遠征を開始した。昭王は周の王軍の半分を動員し「西方六師」を編成しており[13]、李峰とラルフ・D・ソーヤーは、この攻撃の規模は、楚を完全に滅ぼすことで、長江中流域を永久的に支配下に置こうとする昭王の意志の表れだとしている[1][41][48]。王(昭王)の19年に南征の最中、カン(まだれに干)を拠点にしていたことを示す金文が複数存在している[70]。なお、このカンの位置ははっきりとわかっていない[67]。今本『竹書紀年』によれば、楚への第二次遠征は彗星の出現という不吉な前兆の下で始まったとされている[18]。その結果、昭王、祭公(蔡公)、辛餘靡が率いる周の大軍は、楚を破ることができなかったとされる[18]。尹弘兵は、周が南方の地理と気候に不慣れだったことが、敗因であったと推測している[3]。竹書紀年(今本・古本)昭王19年の「天が大いに曇り、雉や兎がみな震え、六師を漢江に失った」という記述に基づいて、漢江の上流で暴風雨が起こったために、周軍が駐屯していた漢江の下流域に大洪水が起こり巻き込まれたという解釈を示している[10]。周は漢江を渡って撤退しようとしたが、『呂氏春秋』の記述によれば、わたっていた橋が崩れ落ちて、昭王と蔡公が漢江に落ちた。辛餘靡は川を渡って救おうとしたが、二人とも溺死したとある[18][41][1][13]。昭王救出の功績が認められ、辛餘靡は男爵に叙せられている[71]。橋が崩れた原因はよくわかっていないが、過積載や妨害工作、あるいは楚の奇襲などの可能性が推測されている[23]。ラルフ・D・ソーヤーは、橋の崩落によって周軍は最も重要な指揮官を失っただけでなく、さらに唯一の退路を失ったとしている。これにより、退路を断たれた周軍は混乱に陥り、おそらく楚軍と大激戦となり、圧倒され壊滅したとみられる。そのため、昭王の死と敗北を、後世の人々は楚の責任とした[72]。一方で『帝王世紀』の記述では、昭王を憎む船頭が、膠でできた舟に昭王を乗せ、漢江の中流で膠が溶けだし溺れ死んだとされている[10]。
しかし、昭王が本当に南征の最中で死亡したというのが、史実かは明らかではない[68]。竹書紀年では、昭王の生死を記述しておらず、また当時の金文に昭王が南征によって死亡したというたぐいの記述があるものはない[68]。
影響

昭王の南征の敗北は、周王朝に深刻な政治的影響を及ぼした。推定によれば王軍のほぼ半数、おそらく1万2千を超える兵士を失なうという[1][22]、圧倒的な軍事的打撃を受けた。周の勢力拡大は停止を余儀なくされ、国力の再建を図るも、外敵からの防衛に忙殺されることとなった。南方への規模の大きい侵攻はその後行われることがなく、周が長江中流域へ南下することは二度となかった。また、山東省の東夷に対する軍事作戦も停滞し、ついには完全に終了した[73]。昭王の後継者である穆王以降の時代の金文には、防衛を意味する「戍」の文字が多くみられ、周が外部へと打って出ていた昭王期とは異なり、軍事の主目的が外部勢力の侵入に対する領域防衛へと変貌したことがうかがえる[74]。青銅器の出土範囲が渭水流域に限定されるようになり、周の影響がみられる範囲が縮小段階に入っていることがうかがえる[74]。しかし、「屈辱的な最期」に終わったにもかかわらず、昭王は少なくとも長江以北と漢江以東の政治的な支配を確立したという側面もあり、南征は時折肯定的な評価を受けることもあった[69]。穆王の治世中に、周は南西で失われた西方の六師を再建したようで[75]、その後の外部の侵略からの防衛に成功している[76]。
しかし、こうした外敵の侵略が実際に起こること自体が、西周の衰退の印であった。軍事的損失よりもはるかに、周が敗北したという事実がもたらした心理的影響が深刻であった。周の人々にとっては、南蛮人の手によって天子が不吉な死を迎えたことほど、最悪の前兆はなく、周はもはや無敵の存在ではなくなり、外敵は可能であればいつでも周の力を試すことをためらわなくなった[73]。周は結局「南征の損失から完全に回復することはなかった」[76]。以降の周王の治世下では、諸侯国による反乱や外部からの侵略がますます頻繁に起こるようになった[77][78]。(一説によれば)三監の乱や昭王の南征では王が親征を行っていたが、昭王の南征を境に厲王の治世まで周王の親征はみられなくなり[74]、臣下が登場するようになっている[79]。この変化や穆王期の祭祀儀礼の頻繁さより高島敏夫は、周王が軍事的な王から祭祀的な王へ変貌し、宗教的権威によって統治体制の立て直しを図ったという説を唱えている[79]。
一方、楚も勝利したとはいえ、名目上は再び周王に服従し、歴代の君主たちは「王」の称号を名乗ることは控えていた[55]。周と楚の間で通使も再開して一定の交流関係が再開されていたものと見られている[80]。実際のところ、楚は長江中地域の自治権・支配権を実質的に確立していたため、もはや周の君主に公然と反抗する必要はなかった。昭王の死後、穆王は楚が完全に服従するように、懲罰的な意味あいの軍事作戦を指揮したが、失敗に終わった。楚は依然としてゆるぎなく事実上の独立勢力のままであった[55]。おそらく楚やその配下の国家の勢力拡大を阻止するため、周王朝は属国である鄂を楚の北部に位置する南陽盆地へ移転させた。周の厲王の治世まで、鄂は長江中地域でおそらく最も強力な勢力であり、南方における周の防衛を担っていた。しかし、鄂は紀元前850年に周に対して反乱を起こし、周によって滅ぼされたのち[81]、その故地は楚に吸収され、楚はさらに勢力を増した[82]。紀元前823年頃におきた周と楚の最後の戦争の後、楚は周から完全に独立した[55]。申侯の乱以降の東遷と同時期である紀元前703年頃には、楚の武王が王号を自称し、周王と自らを同等であると宣言するに至り[83]、楚と東周の諸侯国との抗争は本格化していくことになった[80]。
脚注
注釈
- ^ 周時代の年代ははっきりしていない。そのため本稿では、注釈内でのみ年号を示すこととする。古本『竹書紀年』の記述によれば、昭王16年に楚荊を討ったという記述があり、昭王19年に六師を討ったという記述がある[10]。この昭王16年と昭王19年について、李峰はおおよそ紀元前961年と紀元前957年であるとしている[11](英語版の記事では、この年号を採用している)。一方で、夏商周年表プロジェクト(夏商周断代工程)の結果では、昭王の在位を紀元前995年から紀元前977年までの19年間としているため[12]、昭王16年は紀元前981年、昭王19年は紀元前977年ということになる(中国語版ウィキペディアではこの年号を採用している)。
- ^ 金文に楚の司令官として名を残している楚の伯は、熊艾とも推定されている[20][21]。
- ^ 例外として丁山は、虎方を「南蛮」とされた春秋時代のYihuと関連するとして、その所在を安徽省と考えている[9]。
- ^ 曾や鄂は、金文では二つをセットで言及があり、考古学的にも近隣にあったことがわかっている[67]。金文で言及されている「曾師」や「鄂師」については、曾や鄂の君主の部隊ではなく、諸侯の軍事活動を補佐するために軍事・交通上の要地に置かれた周王朝の軍隊ともされている[68]。
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