日野原開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 07:53 UTC 版)
県北東部に位置する巨摩郡日野春(北杜市長坂町)の開拓を企図した。日野原は南北一里、東西7 -8町、面積百数十町歩の原野で、水利が乏しく秣場として利用されている荒野であった。日野原開拓は前任の県令・土肥と権参事・富岡敬明により企図されていた。敬明は明治8年9月に香川県令として転任するまで日野原開拓に携わっている。藤村は1873年(明治6年)に大蔵省租税寮において稟議が始まると、試験的に開墾と桑、茶、ぶどうや甘藷、クローバー、蕎麦などの栽培を実施した。 政府による日野原開拓の稟議は地租改正により一時的に宙に浮くが、翌1874年(明治7年)に藤村は再び開拓計画を上申し、移住者を募集して開拓を開始した。同年11月には洋風建築の養蚕伝習所を開設し、外国人教師を招いて養蚕技術の普及を企図した。日野原開拓は利水の乏しさにより難航したが、北巨摩地域において養蚕を普及させる効果は発生したと評されている。
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