日報社時代
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明治5年(1872年)日報社に入社し、10月に創刊した『教林新報』は景雄の手によるものともされる。明治7年(1874年)岸田吟香と共に日報社編輯人となった。 明治8年(1875年)6月新聞紙条例が施行されると、『東京日日新聞』では甫喜山景雄が2度罪を被ることとなった。明治8年(1875年)にはジャーナリストが言論弾圧に屈せぬよう鼓舞する20歳少年の投書を掲載したことが問題となり、編集長代理として名が載っていた甫喜山景雄が罰金10円、自宅禁錮30日に処せられた。更に翌年1月19日には社説「抑圧の政に陥る」が咎められ、5月18日、仮編集長だった景雄に禁錮3ヶ月が言い渡された。 明治9年から10年3月まで『通俗支那事情』編集長兼印務人を務めた後、明治11年(1878年)人手不足の大阪日報社の編輯を助けるため大阪に上った。帰京後、明治13年(1880年)には京橋区西紺屋町9番地(中央区銀座二丁目、現在の東急ハンズ銀座店)に住んでいる。 明治11年(1878年)『世情日用草紙』を創刊した。明治13年『拾葩一欄』と改題。 明治17年(1884年)4月、日報社の職場で倒れ、死去した。墓所は千駄木専念寺。
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