新川小学校長時代
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1887年(明治21年)には若くして第八学区北大浜学校(現・碧南市立新川小学校)の訓導兼校長に就任し、1891年(明治24年)には新川尋常高等小学校(現・碧南市立新川小学校)の訓導兼校長となった。1900年(明治33年)には碧海郡・西春日井郡・幡豆郡の3郡の視学官(教育行政官)となり、教員の指導や助言に当たった。1906年(明治39年)には再び新川尋常高等小学校の校長となり、さらに新川尋常高等小学校に併設された農商業補習学校でも青年の教育にあたった。 1911年(明治44年)には材木商であり新川町長だった岩田以手紙に対して文庫の設立を要請。1912年(大正元年)11月1日には、板倉の篤志や新川尋常高等小学校の卒業生からの寄付金を基にし、新川尋常高等小学校附設新川町立新川文庫を設立した。板倉は初代文庫長にも就任。設立の嘆願書によれば、児童生徒はもちろんのこと広く新川町民の利用も想定しており、高等科の卒業生からは書籍も寄贈されている。 1919年(大正8年)には教育活動の功労として勲八等瑞宝章を受章した。新川の精界寺境内の墓地には人造石で知られる服部長七の墓と功績碑があるが、功労碑の碑文は1920年(大正9年)に板倉が記した。1921年(大正10年)5月に新川尋常小学校の校長を退任し、新川町によって功労者として表彰された。1924年(大正13年)に63歳の生涯を閉じた。
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