新世界への移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 06:56 UTC 版)
「ジョン・エンデコット」の記事における「新世界への移住」の解説
1627/8年3月、ニューイングランドのためのプリマス委員会のために、ウォリック伯爵が「マサチューセッツのプランテーションのためのニューイングランド・カンパニー」に与えた土地払下げ書に署名した7人の1人がエンデコットだった。当時のプリマス委員会は北緯40度線と48度線の間にある北アメリカで、イングランドによる植民地化を監督した親組織だった。 エンデコットは最初の遠征隊を率いる者に選ばれ、50人かそこらの「開拓者と従僕」と共に、1628年6月20日にアビゲイル号に乗船して、新世界に向かった。彼らが組織した開拓地は、土地のインディアン部族から当初ナウムキーグと呼ばれたが、1629年にセイラムと改名されることになった。その地域は既に失敗したドーチェスター・カンパニーの開拓者達が占領しており、その中の数人がニューイングランド・カンパニーにも参加していた。この初期開拓者の集団はロジャー・コナントが率いており、ケープアンの開拓地(今日の グロスター近く)を放棄した後に移って来ていた。エンデコットは非公式にだが新植民地の総督に指名され、1629年に王室勅許が発行されるまで務めた。この時点でロンドンにある会社の委員会によってエンデコットが総督に指名されており、マシュー・クラドックがロンドンの会社の総督に指名された。 エンデコットの責任は植民地を設立し、後続の開拓者が到着するのに備えることだった。1629年と1630年の冬はイングランドの冬に比べて難しいものであり、プリマス植民地から医療の補助に呼ばれた。大西洋の旅で病気になっていたエンデコットの妻がその冬に死んだ。エンデコットが遭遇したその他の困難さには、植民地の開拓者の間に起きた宗教的摩擦の初期の兆候があった(非国教派と分離主義者の分裂)。また、ウェサガセット植民地に失敗したトマス・モートンとの気まずい関係があり、放蕩的な慣習(メイポールとダンスを含む)はマサチューセッツ湾とプリマスの植民地では大半の開拓者が行っていた保守的ピューリタン主義にとって異端だった。エンデコットの総督としての初期にモートンが放棄した植民地の跡を訪れ、メイポールを倒させた。初期開拓者のある集団が、植民地指導者が設立した教会とは独立した教会を設立しようと望んだとき、エンデコットはその集団の指導者を即刻イングランドに送り返した。
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