新の滅亡と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 06:48 UTC 版)
地皇4年(23年)6月に、大司空王邑率いる新の主力部隊が、反新軍を率いる劉秀により昆陽で殲滅され、王邑は長安へ命からがら退却してきた。崔発は、王邑は小心者であるから自害しないよう慰める必要があると王莽に進言し、崔発が使者となってその役を担う。まもなく、王邑は大司馬に転任し、崔発が後任の大司空に任命された。 同年7月、析県(弘農郡)の鄧曄・于匡が蜂起すると、関中でも反新軍が勃興したことに王莽は憂慮を抱いた。これに対して崔発は「『周礼』と『春秋左氏伝』は、国家に災難があれば、哭することでこれを制圧したとしています。『易経』は『先號咷而後笑』としています。哭し、叫ぶことで天に救いを求めましょう」と進言する。王莽はこれを容れて、自ら大いに哭して叩頭し、自らの功労を一千字の策書に記して、天に救いを求めた。また、儒者や民衆も、王莽の指示・支援により、同様に哭し、文書を表し、優れた者5千人余りが侍郎や郎中として取り立てられている。 同年9月、更始帝配下の西屏大将軍申屠建・丞相司直李松らの軍により、長安は陥落し、王莽は斬られて新は滅亡した。崔発は、かつて長安で申屠建に『詩経』を教えたことがあったため、これを頼って降伏する。しかし申屠建は、崔発が王莽の皇帝即位を後押ししていたと知ると、崔発を丞相劉賜に引き渡して処刑させた。
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