敵方に情け
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 22:48 UTC 版)
迅衝隊が味方に対して厳しい軍律を敷いた一方で、敵方に情けをかけたことが知られている。具体的には、二本松の少年兵を敵方ながら官軍の野戦病院に連れていったり、松平容保が降伏する際も、輿に載って城外に出ることを許可している。これは、味方で処罰される者は軍律違反の罪人であるが、敵方の敗残兵は正々堂々戦ったうえでの敗者であって罪人ではないとの考え方によるもの。これらの人々に対して、あえて、問われるとするならば、「錦の御旗に対して弓を弾いた」という勅命違反および幇助となり得るが、その責任は上官が受けるものであって、下士官、諸兵は上官からの命令を遂行しただけであって罪にはなり得ないとするものである。同じ、土佐藩の堺事件の時には命令を遂行した実行者の責任が問われたのとは、対照的な判断であるが、これは、外圧および土佐藩庁の判断によるもので、迅衝隊に関しては板垣退助自身の武士道観ならびに近代的軍隊のあり方についての考え方が、土佐藩庁の判断などとの違いに依存するものである。板垣は、戊辰戦争終結直後の明治2年から、いわゆる「戊辰の朝敵」に対する名誉回復を訴え、彼らの社会復帰を率先して協力している。
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