整地痕跡と馳道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 08:00 UTC 版)
平城宮跡では朝庭についても調査が進んでいるが、いまのところ朝庭に特別の舗装が施されていた形跡は確認されていない。ただし、朝庭全体を平坦にするための整地は施されていたと考えられる。 平安宮にあっても、朝庭に舗装がなされていた証拠は確認されず、文献資料にも舗装の事実を示す記録は見あたらない。しかし、平安宮においては「馳道」(ちどう)と呼ばれる施設が朝庭に設けられていたことがわかっている。 馳道は朝庭の東西中軸線上を南北に走向するかたちで設けられ、天皇を拝する儀式の際、官人たちは馳道をはさむかたちで東西に分かれて北より位階の順で並び立ったとされる。通常は、馳道をじかに踏み越えることは禁忌とされており、また馳道を渡る際には「厳敬」して「徐歩」することとされていた。こうしてみると、馳道は字義どおり、元来は「天皇のおなり道」であったと考えられる。ところが、平安宮では大極殿門がなくなって龍尾壇となり、その南端(朝庭との境)には高欄が設けられて、それによって大極殿の区域と朝堂区域とは遮蔽されたのであるから、馳道は日常の政務において不要なばかりでなく、実際には儀式に際してさえ不要なものであり、単に東西を分かつ意味しか持たなかった。したがって馳道は前代の遺制としてのこったものだと推察されるが、平城宮ではその形跡がみられないばかりでなく、中軸線上にも掘立柱建物の柱穴が検出されている。これらの事実をどのように整合的に把握するかについては今後の課題となっている。
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