政尾藤吉とは? わかりやすく解説

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政尾藤吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 06:39 UTC 版)

政尾藤吉

政尾 藤吉(まさお とうきち、明治3年11月17日[1]1871年1月7日) – 大正10年(1921年8月11日[2])は、日本の衆議院議員立憲政友会)、駐シャム(タイ)公使。法学博士

経歴

伊予国喜多郡大洲町(現在の愛媛県大洲市出身。大洲藩御用商人政尾勝太郎の長男[3]。1888年に17歳で家出同然で故郷を離れ、大阪川口のミッション・スクールを経て、同年秋、慶應義塾に入学[4]同人社を経て、1889年東京専門学校(現在の早稲田大学)英語普通科を卒業した[3]1890年関西学院の神学部に入学し、宣教師サミュエル・ウェンライトの家に寄宿し、パルモア学院で英語教師も務めた[4]。ウェンライトにると、藤吉は「まれにみる秀才」だったという[4]

翌年にアメリカ合衆国への留学に出発した[3]。最初、テネシー州ヴァンダービルト大学神学部に入学したが、1893年に方向転換し、ウェストバージニア大学ロースクールに入学して1895年に卒業した[3]1896年イェール大学を卒業し、法学修士号を得、翌年には同大学から民事法博士号を得た[1]

帰国後、ジャパン・タイムズの記者となったが、外務省の委嘱でシャムに派遣された。1898年、総務顧問補佐となり、1902年に法律顧問となった[1]1903年、主席法律顧問に就任し、1913年まで務めた。法典編纂の功績で侯爵に叙任され、王族待遇を受けた[5]

シャムから帰国後は、1915年第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1917年第13回衆議院議員総選挙でも再選された。

1920年12月、駐シャム公使に任命されたが、翌年8月、在任中に死去した[6]

家族

栄典

外国勲章佩用允許

脚注

  1. ^ a b c 法学博士政尾藤吉
  2. ^ 『官報』第2714号、大正10年8月17日
  3. ^ a b c d 「政尾藤吉伝 (1)」
  4. ^ a b c 政尾藤吉伝補遺香川孝三、Journal of International Cooperation Studies, Vol.15, No.1(2007.7)
  5. ^ 『衆議院要覧』
  6. ^ 特命全権公使政尾藤吉特旨叙位ノ件
  7. ^ 『官報』第6599号「叙任及辞令」1905年6月30日。

参考文献




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