戸籍のはじまり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 21:15 UTC 版)
「古代日本の戸籍制度」の記事における「戸籍のはじまり」の解説
造籍に関する古い例としては、 540年(欽明元年)八月の条「秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(となりのくに)より投化せる者を召し集へて、国郡に安置し、戸籍(へのふみた)に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのふびと)を以て、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす」(『日本書紀』)。とあり、欽明朝頃にはまず渡来人を戸籍によって支配したことが窺われる。 569年(欽明30)の春正月に、詔で吉備の白猪屯倉(しらいのみやけ)では、年齢が十歳あまりに達しているのに、籍に漏れているために賦課を免ぜられている者が多い。膽津(いつ)を遣わして田部の丁籍を検定せよと述べた。4月になって、膽津は詔に述べられているとおりによく丁(よほろ)を調査して籍を定め、田戸を編成したので、その功をほめて白猪史(しらいのふひと)の姓を賜い、田令(たづかい)に任じた(『日本書紀』)。丁籍は、課役を負担する成年男子のみを記載した。田戸は、田部を編成して丁籍よりも正確な戸籍を造ったのか。はじめに籍を造っただけで、後は定期的に籍を作成することもなかったらしいので、このような不具合が生じたらしい。 さらに574年(敏達3)十月の条に、大臣の蘇我馬子を吉備に遣わし、白猪屯倉と田部とを増益して、その田部の名籍を膽津に授けたとある(『日本書紀』)。 名籍は、胆津が新しく造ったもので、後の戸籍・計帳に近いものか。これらは渡来系集団や屯倉の田部などの造籍であり、すべての人民を対象とする律令制の戸籍制とは異なる。
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