戦争規制条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 06:08 UTC 版)
「アントニオ・ホセ・デ・スクレ」の記事における「戦争規制条約」の解説
ここまでスクレは、若年の小部隊長か参謀として大小の困難な戦いを経験してきた。ハイチでボリバルを知ったが、スクレの戦場はたいていの場合ボリバルと異なる戦線にあり、直属の上官は必ずしもボリバルとうまくいっていないマリニョやベルムデスであった。後にボリバルはスクレの兵站の才を認め、1820年に武器の購入の仕事を任せた。やがてボリバルはスクレの将才を軍中随一のものと考えるようになり、手元におかず自分のいない戦線を任せるようになった。 1820年のスペイン軍との休戦交渉では代表として使節団を率いた。この休戦がサンタ・アナ・デ・トルヒリョで取り交わされたとき、両軍は以後の戦争を文明的に行うことを目的に、捕虜と民間人の保護を約する「戦争規制条約」を結んだ。このときまで、ベネズエラとヌエバグラナダで死闘を繰り広げた両軍は、互いに捕虜を銃殺していた。このとき以後、無慈悲な殺戮が続いた「死戦」状態はしだいにおさまっていった。近代の戦時国際法の源流の一つでもあるこの戦争規制条約の起草者は、スクレと目されている。
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