成政の越中入封後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:41 UTC 版)
織田氏の家臣・佐々成政の越中入封後はこれに臣従して功があり、嫡子・氏興は成政の婿となり一門に準じた。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると成政は徳川家康・織田信雄方につき、豊臣秀吉方の前田利家と対立。同年の前田氏との末森城の戦いにおいて、神保父子は前田軍の後詰阻止の任を担っていたが果たせず敗北した。その後、阿尾城の菊池武勝が寝返ったのでこれを攻めるために出陣したが、その隙に居城・守山城で家臣が謀反を起こし、留守を守っていた父・氏重を討って城を乗っ取る事件が起きた。氏張はただちに軍を返して反乱を鎮圧したが、改めて出陣した阿尾城攻めは村井長頼らの援軍により撃退された。
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