思想と政治改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 14:10 UTC 版)
趙光祖がもっとも重視したのが、師・金光弼から学んだ『小学』とその実践で、性理学が単なる思弁ではなく、自らの実践によって、初めて民衆の学問となり、生活の規範となることを主張した。 「呂氏郷約」を手本として、地方の自治組織の行動原理としての「郷約」の地方への普及に努める。 宮廷内の旧習や迷信などの伝統的な価値観も容赦なく批判し、「昭格署の廃止」(1518年)をはじめとする改革に取り組む。 周囲の反対をおして、人材登用のシステムとして、「賢良科」を実施(1519年) 「王道政治」を提唱し、王自身の聖君への歩みを絶えず督励続けたこと。 「中宗反正」の威臣が多すぎることを批判し、勲旧派の聖域にあえて切り込んで、ラディカルな改革を行った。
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