後宇多の宗教政策を継承
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「後醍醐天皇宸翰天長印信(ろう牋)」の記事における「後宇多の宗教政策を継承」の解説
第二に、奥書で文観が醍醐寺座主や東寺座主の肩書を名乗っている点が注目される。このことは文観の弟子が著した『瑜伽伝灯鈔』(正平20年/貞治4年(1365年))など南朝由来の文書には見られるが、他の現存文書では基本的にこの時期の醍醐寺・東寺の長は、北朝の三宝院賢俊である。しかし、内田は、南朝元首の腹心がこのように名乗るからには、ただの自称として済ましてしまうのもまた難しいと主張している。 内田は、文観は京都から離れた吉野の地にいるので名目上に過ぎないとはいえ、少なくとも南朝内での正式な醍醐寺座主・東寺座主に補任されていたのではないか、と推測している。文観と賢俊のどちらか一方が「正統な」醍醐寺座主なのではなく、南朝の天皇と北朝の天皇が同時にいたように、南朝の醍醐寺座主と北朝の醍醐寺座主が同時に存在した、という風に考える方が、南北朝の内乱を理解しやすいのではないか、としている。 また、文観が「東寺長者」ではなく、後醍醐の父の後宇多天皇が新設した「東寺座主」に任じられた、と奥書で書かれているのも特徴である。内田は、後醍醐天皇の宗教政策は父が敷いた路線を継承していることが見て取れるとしている。
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