後に出来た郡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:11 UTC 版)
西西条郡(さいさいじょうぐん):苫田郡西部の内、苫東郡との境付近を除く大半の領域。二宮、院庄、奥津町、旧鏡野町、富村などにあたる。 西北条郡(さいほくじょうぐん):苫田郡西部の内、苫東郡と接する東端の領域。津山町・西苫田村・一宮村・田邑村と鏡野の一部にあたる。 東北条郡(とうほくじょうぐん):苫田郡東部の内、南部を除く中北部の領域。高倉、加茂町・阿波村などにあたる。 東南条郡(とうなんじょうぐん):苫田郡東部の内、吉井川に接する平野部。津山市の旧市街地にあたる。 苫東郡(とまひがしぐん):苫田郡の内、宮川を境に分けられた東部。阿波村、加茂町に旧津山市の東北部を加えた領域。これとは別に、寛文元年(1661年)から元禄11年(1698年)の間、東南条郡が苫東郡と呼称された。 苫西郡(とまにしぐん):苫田郡の内、宮川を境に分けられた西部で鏡野町、富村、津山市田辺、田邑など。これとは別に、寛文元年(1661年)から元禄11年(1698年)の間、西西条郡が苫西郡と呼称された。 苫北郡(とまきたぐん):苫東郡から分離。東北条郡の前身と推定されている。後、寛文元年(1661年)から元禄11年(1698年)の間東北条郡が苫北郡と呼称された。 苫南郡(とまみなみぐん):苫西郡から分離。西北条郡の前身と推定されている。後、寛文元年(1661年)から元禄11年(1698年)の間西北条郡が苫南郡と呼称された。 用野郡:近世の養野村(苫田郡奥津町)にあたる。後、西西条郡に転ずるか、吸収された。 久米北条郡:久米郡を南北にほぼ中央で分割した内の西半分にあたる。 久米南条郡:久米郡を南北にほぼ中央で分割した内の東半分にあたる。 久米北郡:寛文元年(1661年)から天和2年(1682年)の間、久米北条郡が久米北郡と呼称された。 久米南郡:寛文元年(1661年)から天和2年(1682年)の間、久米南条郡が久米南郡と呼称された。 勝北郡(しょうほくぐん):勝田郡を南北で二分した内、北部にあたる。 勝南郡(しょうなんぐん):勝田郡を南北で二分した内、南部にあたる。 勝田北郡(かつたきたぐん):寛文元年(1661年)から天和2年(1682年)の間、勝北郡が勝田北郡と呼称された。 勝田南郡(かつたみなみぐん):寛文元年(1661年)から天和2年(1682年)の間、勝南郡が勝田南郡と呼称された。 吉野郡(よしのぐん):成立年未詳。英多郡の北部を分割して吉野郡とした。東作誌では文明3年(1471年)に英多郡の七郷を割いて成立したという。拾芥抄にはすでに載っており、また弘治3年(1557年)成立の美作国献上記にも吉野郡が見えている。
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