当時、柔道と柔術の区別が曖昧だったからという説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 02:16 UTC 版)
「ブラジリアン柔術」の記事における「当時、柔道と柔術の区別が曖昧だったからという説」の解説
明治時代には、講道館柔道は柔術の一流派とされており、まだ柔術と柔道を明確に区別する習慣がなかった。前田光世が日本を発った時、柔道は嘉納柔術という呼び方をされていたため、「柔術」となったと考えられる。例えば、『坊っちゃん』と『三四郎』は1906年(明治39年)と1908年(明治41年)に書かれたものであるが、嘉納治五郎と親交のあった夏目漱石はこれらの作品で「柔術」と書いている。講道館で柔道を修業した者も自分の技を「柔術」と称することが多かった。戦中まで大日本武徳会の「武道専門学校」(武専)で教授されていた「柔術」も、技術内容は講道館柔道と同じものであった。一方で、研究者の内田賢次は、前田光世については「柔道」と「柔術」をはっきり区別していたと、前田が書いた手紙から読み取っている。
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