強国南越
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 01:55 UTC 版)
これを機会と捉えた趙佗は勢いに乗じて、閩越・甌越(西甌)方面に北進した。さらに西北方面の駱越にも遠征し、彼らに財産を与えて(また、甌越は浙江省にいた越部族である「東甌」または「東越」のことも指した)これを支配下に置いた。やがて趙佗は華南全域と華中南部の一部などの広大な地域を南越の領土とした。ついに趙佗は帝と称して「南越国の武帝」と号した。 紀元前179年、前漢では呂氏が誅滅されて文帝が即位した。すると文帝は趙佗の一族を懐柔し、さらに趙佗と面識がある太中太夫・陸賈を再び使節として派遣した。それ以来、趙佗は「藩王」として、毎年貢物を送ったという。それは景帝の代になっても引き継がれた。しかし、南越国内では依然「武帝」と称えたようである。 建元4年(前137年)、高齢となった武帝は百余歳(『大越史記全書』では121歳)で薨去した。武帝の嗣子や諸子は既に父よりも先立っていたので、嫡孫の趙眜が祖父の後を継いだ。
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