張正煥とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 張正煥の意味・解説 

張正煥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/23 22:06 UTC 版)

張正煥
장정환
生年月日 1923年1月25日
出生地 日本統治下朝鮮咸鏡北道
没年月日 (1982-07-23) 1982年7月23日(59歳没)
死没地  朝鮮民主主義人民共和国
出身校 清州商業学校
所属政党 朝鮮労働党

在任期間 1961年3月 - 1974年2月
最高指導者 金日成1948年 - 1994年

その他の職歴
朝鮮労働党中央委員会委員候補
1974年2月 - 1977年
人民武力部副部長
1971年 - 1977年
テンプレートを表示
張正煥
各種表記
チョソングル 장정환
漢字 張正煥
発音 チャン・ジョンファン
テンプレートを表示

張 正煥(チャン・ジョンファン、朝鮮語: 장정환1923年1月25日 - 1982年7月23日)は、朝鮮民主主義人民共和国軍人政治家朝鮮労働党中央委員会委員候補、人民武力部副部長、キューバ大使などを歴任。朝鮮人民軍における軍事称号(階級)は少将[1]

経歴

1923年日本統治下の咸鏡北道で生まれた[2]1941年に清州商業学校を卒業した[2]。この時期には満州で抗日闘争に参加したが[3]金日成の部隊とは系譜が違った[3]

1945年に日本が敗戦を迎えると、朝鮮人民軍将校となり[3]咸鏡北道党委員会などに在籍した[2]朝鮮労働党中央委員会指導員[2]外務省局長を経て[2]1961年に少将に昇進し[1]軍事停戦委員会首席代表に抜擢された[1]。同年3月最高人民会議代議員に選出され[2]1964年朝鮮人民軍総政治局副局長に就任した[2]1966年6月にはキューバ大使に任命された[1]。その際には金日成首相から、キューバ危機以来アメリカとの関係が悪化しているキューバで戦争が起きれば、大使はもちろん留学生も銃を取って志願兵として参戦せよと指示された[1]。実際に、キューバに赴任すると大使館職員がキューバの軍服を着て軍事訓練を受けた[1]

1971年に帰国すると[1]人民武力部副部長に就任し、1974年朝鮮労働党中央委員会委員候補に選出された[2]1977年には金正日への後継体制を批判した、金東奎、柳章植に同調したため、慈江道に左遷された[4][注釈 1]

1982年7月23日に死去[2]愛国烈士陵に埋葬された[2]

親族

朝鮮民主主義人民共和国国防委員会副委員長などを務めた張成沢(金正日の妹婿)はおいで、成沢が北朝鮮の最高学府である金日成総合大学に入学できたのは正煥のおかげという[3]

脚注

注釈

  1. ^ 金正日指揮下による米兵虐殺事件であるポプラ事件は金日成の謝罪により3日で戦争の事態は回避されたが、金正日はこの危機をむしろ好機ととらえて政敵の排除に乗り出し、全土に準戦時体制を敷き、総動員令を発布、軍部隊に戦闘態勢の維持を命じ、その上で、張成沢を用いて朝鮮半島南部の出身者や知識人を含む「不純分子」約20万人を平壌から強制退去させる「疎開事業」を敢行した[4]

出典

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  張正煥のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「張正煥」の関連用語

1
8% |||||

2
ポプラ事件 百科事典
4% |||||

3
張成沢 百科事典
4% |||||

検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



張正煥のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの張正煥 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS