弟子たち・子供たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 01:58 UTC 版)
安永7年(1778年)、清庵は玄白の天真楼塾に、次男の亮策と、秀才の弟子大槻茂質を送った。その後、亮策は国元に帰り3代清庵由水となる。大槻茂質はのちに大槻玄沢と名乗り、蘭学塾芝蘭堂を開き、蘭学の発展に大いに貢献する。 玄白は晩婚であった。男子も産まれたが虚弱であり、養子を探していた。天明2年(1782年)5月15日、玄白の塾で学んでいた清庵の第五子(四男?)由甫を養嗣子に迎え、杉田伯元(1763-1833)とし、宗家として杉田家を継がせた(その後玄白と後妻との間に男子の立卿が生まれたが、立卿は分家した)。 同年、一関の地で、建部清庵由正没。いちど杉田玄白と会いたいと望みながら、それは叶わなかった。 寛政5年(1793年)、杉田伯元は玄白の娘の扇と結婚し、恭卿、白玄らを儲ける。その後、弟子の杉田玄端(玄白の子杉田立卿の猶子)が白玄の養子となって杉田家宗家を継いだ。 清庵と玄白・源内とのあいだを取り持った弟子の衣関甫軒は、眼科として一家を構えた。その子である貫もまた眼科学の発展に貢献する。
※この「弟子たち・子供たち」の解説は、「建部清庵」の解説の一部です。
「弟子たち・子供たち」を含む「建部清庵」の記事については、「建部清庵」の概要を参照ください。
- 弟子たち・子供たちのページへのリンク