弓子の両性具有性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:04 UTC 版)
前田愛は、弓子が時折、男に変装して「明公」という若者になる点を注目し、弓子が「アンドロギュヌス(両性具有)の少女として設定」されているところに、その「変装が撒き散らす曖昧さ」の源があるとし、「女の弓子はどことなく男っぽいし、明公に変身したときの弓子は、身ぶりや言葉のはしばしに少女らしい優しさをただよわせる」として、「私」が明公と一緒に、早朝の浅草公園へ浮浪者を見に行く場面で、化粧道具をぶらさげた首筋の白い明公の後ろ姿を「私」が見るところに、「倒錯したエロティシズムが的確にとらえられている」と解説している。 小関和弘は、弓子のように「自発的」にではなく、「強いられて〈両性具有的〉になっている」多くの人々(頬かぶりをして男のようなよいと巻けの女たちや、男装した浮浪者の女、カジノ・フォーリーの舞台でシルクハットを被る男装の女優、インド人の指輪売りに「小さい女」のように愛された少年・銀猫梅公など)が作中に描かれていることに着目し、そういった「性の錯雑の頂点」に、弓子の自発的な男装があるのではないかとし、『浅草紅団』の世界は、「女⇔男」の変貌をいくつも描き出すことを通して、「〈性〉が単に生理的な概念だけではなく、文化的社会的概念でもあることを照らし出している」のではないかと考察している。 そして、「女であること」を強調し、より以上に肉体を露出する、エロエロ舞踏団や、カジノ・フォーリー、売春、さらには「腹に口のある男」の見世物など、「生理的機能をもち、生理としての性を内在させた自然的身体が、社会的文化的プロセスの中で現実化する様態のうちでも極限的レベル」にあるような「肉体の商品化」が、あらゆるものに及んでいる浅草における弓子の「変幻自在」な生き方は、「なんとかしてこれらの現象を自力でのりこえようという試み」ではないかと小関は考察しつつ、しかし弓子自身、そうした生き方を最良のものとは考えてはいないことは、「紅丸」での赤木との場面から窺われ、弓子は春子の生き方とは違う、「ありうべき〈女〉」を夢想しているとし、変幻自在に変身しているようにみえる弓子の「両性具有性」は実は、「決して自由なあり方ではなく、言わばアンドロギュヌスの聖性の中に自らの〈女〉を閉じ込めているものだということ」が示唆されていると解説している。
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