広瀬監督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:28 UTC 版)
「福岡ソフトバンクホークス」の記事における「広瀬監督時代」の解説
1978年 前期は4月と5月に7連敗するなど、後期も7月に7連敗するなどあり共に最下位に終わる。打線は門田博光や藤原満の故障もあり前年より弱体化、投手陣もエースの山内新一が1勝を挙げた後にスランプとなりこの年3勝に終わり、ストッパーも佐藤道郎が3勝で江夏豊の抜けた穴が埋まらなかった。村上之宏が新人王を獲得。観客動員は激減し、12球団最少の44万4千人。 1979年 3割打者を4人輩出(新井宏昌、片平晋作、カルロス・メイ、河埜敬幸)。金城基泰は最優秀救援投手、山内新一の12勝が唯一の2桁勝利。門田博光がキャンプ中にアキレス腱断裂で離脱、シーズン5位(前期5位・後期最下位)に終わる。 1980年 「ドカベン」こと香川伸行が入団し、開幕直後は首位争いを演じるも4月30日から7連敗を喫し失速、最下位に終わる。門田が41本塁打、メイが.326を残したが投手陣は山内新の9勝が最多で金城は2年連続最優秀救援投手に。シーズン後、広瀬が辞任。
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