常盤山小平治_(1826年生)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 常盤山小平治_(1826年生)の意味・解説 

常盤山小平治 (1826年生)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/03 00:44 UTC 版)

常盤山 小平治(ときわやま こへいじ、1826年文政9年〉 - 1869年10月2日明治2年8月27日〉)は、現在の長崎県南島原市(旧・肥前国高来郡)出身の大相撲力士[1]。本名、身長、体重は不明。最高位は西関脇常盤山部屋及び玉垣部屋に所属した。鷲ヶ濱音右エ門岳父に当たる。

人物

1851年4月から1852年2月までは八戸藩、1852年11月以降は島原藩お抱えだった。岳父が自殺して嫌疑を受けたので脱藩したが、途中で参勤行列と出合い、運良く同郷の者が居たので一行に加えてくれるように頼み、怪力を買われて駕籠担ぎとして加わった。江戸に出てからは仲間として働いていたが怪力を見出され、勧誘されて入門した。

1846年3月初土俵(序ノ口)。1853年11月東二段目9枚目にあがり、現在でいう十枚目昇進を果たす。1856年11月新入幕。幕内に入っても順調に白星を重ね、1860年11月新三役(西小結)に昇進した。そこから9年・18場所連続に渡って三役を務め、強豪力士として鳴らした[2]。堅太りの小兵で、巧い取り口だったと伝わる。1862年3月に関脇に昇進。雲龍久吉に強く、実力大関だったが、番付運が頗る悪く遂に大関昇進は叶わなかった。1866年11月に8代常盤山を襲名し、二枚鑑札となった。1869年8月27日に現役中のまま死去。44歳だった。

幕内通算26場所 99勝33敗93休13分5預の成績を残した[1]。優勝相当成績2回(幕内1回〈1865年2月[3][4]。全勝だった。〉十両1回〈1853年11月〉)の好成績を残している。

酒豪で物事に無頓着であり、常に文無しだった。「裸関取」というあだ名もあった[2]

改名歴は2回ある:簑島 邦五郎 → 鷲ヶ濱 音右エ門 → 常盤山 小平治[1]

出典

  1. ^ a b c 常盤山 小平治 力士情報
  2. ^ a b 入幕順幕内力士一行紹介・十六 - 相撲評論家之頁※0452 鷲ヶ濱 音右エ門の項を参照。
  3. ^ 当時の四股名は、鷲ヶ濱 音右エ門だった。
  4. ^ 他に1863年11月に西小結で7勝0敗2分,1864年4月に西関脇で7勝1敗1預1休と優勝同点の成績を残しているが、いずれも番付上位者優勝制度により(1863年11月は鬼面山谷五郎〈当時東関脇。のち第13代横綱。この場所7勝0敗2分〉。1864年4月は不知火光右衛門〈当時西大関吉田司家より横綱免許を貰っていたため第11代横綱でもあった。この場所7勝1敗2休〉)優勝をさらわれている。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  常盤山小平治_(1826年生)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「常盤山小平治_(1826年生)」の関連用語

常盤山小平治_(1826年生)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



常盤山小平治_(1826年生)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの常盤山小平治 (1826年生) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS