岸田吟香との親交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 09:41 UTC 版)
実業家として知られる岸田吟香の伯母(祖父岸田助左衛門の長女)壽(とし、寿)が東伯の祖父弁次郎義榮(べんじろうよしひで、辨次郎、弁治良、屋号は乢(たわ))に嫁いだ縁で、特に親しかった。なお、弁治郎は弘化4年3月(1847年4月)下籾村庄屋として記録が残っている。 吟香が19歳で江戸に出ようとしたとき、長男であることを理由に両親から強く反対されていたが、東伯の父吉左衛門義謙(よしかね)が旅出させた。 安政2年(1855年)初冬22歳のとき、吟香は持病の脚気が悪化し失意のうちに帰郷したが療養は光元家に奇寓して行った。一年後病が癒えて再び江戸を志すものの、両親の許しが出ず、伯父弁次郎の執り成しでなんとか大坂までの許しが出た。 吟香は生涯恩を忘れず、吉左衛門や東伯を東京に招いて歓待したり、東京日日新聞や目薬「精錡水」を終始送ってきたという。 東伯は東京銀座の吟香の自宅で伊藤博文と3人で会食したことを長女茂野によく話していた。 明治30年(1897年)吟香が津山に戻ってきた際、東伯、茂野とともに津山の「むさしの旅館」に滞在した。 明治37年(1904年)吟香は光元弥兵衛當孝(宗家(屋号は正家(かみや)))の碑銘を揮毫している。
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