岩神王子の再発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/08 00:48 UTC 版)
西による九十九王子調査のなかで最大の功績は岩神王子の再発見である。岩神王子は寛政年間には衰退が始まり、19世紀中ごろには祠も印も無い状態であったと伝えられ、明治時代には熊瀬川王子とともに湯川王子に合祀され(1877年〈明治10年〉)、湯川王子も1908年(明治41年)に近野神社に合祀された。岩神王子の祀られていた岩神峠(岩上峠)を通る旧道は、険路として知られていたが、新道の建設や岩神峠麓の道湯川村が無住になると、山中に埋もれて忘れられていた。 西は、『和歌山県聖蹟』や芝口常楠『中右記と熊野参詣道』といった先行文献における岩神王子に関する記述に疑問を抱いた。西の疑問は、それらの文献の記述と『中右記』といった古い文献の記述とが不整合であることから気づかれたもので、それだけでなく国土地理院の2万5千分1地形図にも誤りがあることを指摘した。『中右記』の記述や地元住民の証言をもとに、西は熊瀬川を渡って草鞋峠を越え、岩神峠の登り口に至る、参詣道が本来通っていたルートを発見した。岩神王子の調査は前後3回に渡り、3回目の調査で、『紀伊続風土記』の記述と合致する地形の場所を発見した。
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