山田太郎 (衆議院議員)
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山田 太郎(やまだ たろう、1918年3月24日[1] - 2002年12月23日[2])は、日本の政治家、公明党の衆議院議員(6期)[2][3]。岡山市出身[2]。
経歴
1941年、慶應義塾大学文学部を卒業[4]。1967年の第31回衆議院議員総選挙で当時の中選挙区であった岡山県第1区で、党結成後初めての総選挙に公明党から出馬して初当選し[5]、以降、1980年の第36回衆議院議員総選挙まで連続6回の当選を果たした[3]。この間、1972年には政策審議会文教部会長[6]、1981年には中央統制委員[7]など、党内の要職を歴任した。2002年12月23日、岡山市内の病院で脳梗塞の後遺症により84歳で亡くなった[2]。
脚注
- ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、1307頁。
- ^ a b c d 共同通信 (2002年12月23日). “山田太郎氏死去 元公明党衆院議員”. 全国新聞ネット. 2014年10月21日閲覧。
- ^ a b “山田太郎”. 国会議員白書. 2014年10月21日閲覧。
- ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』685頁。
- ^ 谷合正明 (2007年11月17日). “岡山県本部の代表代行に”. 2014年10月21日閲覧。
- ^ “政治短信 来月に中央委総会”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 2. (1972年2月5日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ 法政大学大原社会問題研究所『日本労働年鑑 第52集 1982年版』労働旬報社、1981年11月30日。:“日本労働年鑑 第52集 1982年版 第二部 労働運動 XIV 政党 4 公明党”. 法政大学大原社会問題研究所 (2001年9月18日). 2014年10月21日閲覧。
参考文献
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
議会 | ||
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先代 中村重光 |
![]() 1976年 - 1977年 |
次代 岡本富夫 |
「山田太郎 (衆議院議員)」の例文・使い方・用例・文例
- OB・OGページに山田太郎さんのページへリンクを張りました
- 新社長には山田太郎社長が就任する
- 私は山田太郎と申します
- 男子競歩20キロの代表に、山田太郎選手が選ばれた
- 県警が山田太郎容疑者を組織犯罪規正法違反の疑いで逮捕した
- 山田太郎がギャグで一世を風靡した
- 山田太郎は何と言っていましたか?
- 彼女は山田太郎に教わった。
- 私は山田太郎という人物を知っています。
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- 私の名前は山田太郎といいます。
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