山本有三の意見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:31 UTC 版)
懇話会の出席者である山本は、フランスの劇作家であるエミイル・マゾオの戯曲『休みの日』(翻訳・小山内薫)の上演に対して、「こういう台本を土台にして、どうしてよい演出が望めよう。作の味とか人物の性格はさておいて、一つ一つの会話さえ満足に伝えることができないではないか」と感想を寄稿した。小山内のやっつけ仕事を責める一方で、「よい訳をよくやってくれるのなら大いにいい。今の日本ではそれは必要なことだ」と翻訳劇そのものへの理解も示している。なお、誤訳の指摘に関しては友人の岸田國士に深く負っている事を明記している。山本は東京帝国大学(1877年旧制、1886年新制)の独文科、小山内は英文科、岸田は仏文科の出身であった。 私は誤訳指摘が目的でないから、他の翻訳については口をつぐむが、しかしただこのことだけは言っておきたい。たとえ原語からの直接訳であっても、耳どおい訳語の羅列(られつ)では、戯曲の翻訳としては価値が乏しいということを。戯曲の訳は読んでわかっても、聞いてわからないようなものは、いい翻訳とは言われない。(中略)こう考えてくると、翻訳劇をやるということは非常にむずかしいことである。演出やその他のことはまず別として、いい翻訳を得るということだけがすでに問題である。誤訳だらけだったり、せりふのいきの出ていないような翻訳ものをいくら上演してみたところが、あまり意義のある仕事とは思われない。築地小劇場は向後二年間翻訳劇ばかりやってゆくと称しているが、いったい翻訳について自信があるのであろうか。安心して舞台にかけられるような、確かな翻訳がそうたやすく得られると思っているのだろうか。思うような翻訳を得るためには、同人たちが訳すのが一ばん確かなこととも思われるが、同人の首脳と目せられる小山内氏の訳が前述の通りであると少し心ぼそい。翻訳ものばかりをやってゆきたいならそれもいいだろうが、しかし翻訳劇を専門にやってゆくとして、確かな訳本が二年間分もそろうであろうか。築地小劇場の欠陥はここにありはしまいか。 — 築地小劇場の反省を促す
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