山岳雑誌『山小屋』での初期構想
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「日本百名山」の記事における「山岳雑誌『山小屋』での初期構想」の解説
深田は、第二次世界大戦前には日本のめぼしい山にすべて登っており、その中から百名山を選ぶという構想を持っていた。全国88座の山を記した谷文晁の「日本名山図会」を念頭に置いたともいわれる。1940年(昭和15年)3月から、出版社であった朋文堂から山岳雑誌の『山小屋』で日本百名山の初期の構想であった連載を始めた。その初回で「日本百名山を選ぶのは、多年の僕の念願であった」と記載して、400-600字程度の短編に自身が撮影した写真を付けて、毎月2座合計以下の20座の連載が行われた。 高千穂峰、乗鞍岳 - 3月号 岩菅山、妙高山 - 4月号 燧ヶ岳、至仏山 - 5月号 五竜岳、蓼科山 - 6月号 宝剣岳、高田大岳 - 7月号 白山、会津駒ヶ岳 - 8月号 薬師岳、太郎山 - 9月号 高妻山、霧ヶ峰 - 10月号 赤岳、開聞岳 - 11月号 湯ノ丸山、岩手山 - 12月号
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