山岳部踏破と帰薩とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 山岳部踏破と帰薩の意味・解説 

山岳部踏破と帰薩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)

西南戦争」の記事における「山岳部踏破と帰薩」の解説

可愛岳突破した突囲軍は8月18日鹿川分遺隊を粉砕し三田井方面への進撃決定したその後19日には祝子川包囲第2線破り、翌20日鹿川村中川村落として三田井へと突き進んだ21日、突囲軍は三田井到着するが、ここで桐野征討軍による包囲極めて厳重であり、地形が非常に険しいことから突囲軍の全軍突破することは困難であると考え熊本城奪取提案するも、西郷はこれを却下し22日深夜、突囲軍は鹿児島向けて南進開始した。 これに対し西郷達による可愛岳突破衝撃受けていた征討軍は、横川吉松加治木などに配兵し、西郷達の南進阻止しようとするが、少数精鋭あり、か機動力長ける突囲軍の前に失敗終わった。これは、西郷達の行動始めから一定の目的に従っていたわけではなくその時々の征討軍の弱点を突くものであり、鹿児島向けて出発したものの、最終的に鹿児島突入決定したのは、米良到着した後のことであったということ一因であった8月24日西郷達は七ツ山松の平抜け神門出たが、ここで別働第2旅団松浦少佐攻撃を受けるも、何とかこれを免れ26日には村所28日には須木通過し小林入った同日西郷達は小林平地からの加治木進出を図るが、南進阻止すべく鹿児島湾重富上陸した第2旅団にこれを阻まれ失敗終わった迂回余儀なくされた西郷達は9月1日征討軍の守備隊撃破し鹿児島潜入した

※この「山岳部踏破と帰薩」の解説は、「西南戦争」の解説の一部です。
「山岳部踏破と帰薩」を含む「西南戦争」の記事については、「西南戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「山岳部踏破と帰薩」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山岳部踏破と帰薩」の関連用語

山岳部踏破と帰薩のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山岳部踏破と帰薩のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの西南戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS