屋内舞台の歌仔戯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 17:30 UTC 版)
日本統治時代、屋外舞台での歌仔戯は台湾民衆の支持を受け、中国から多くの劇団が台湾を訪れ上演するようになった。歌仔戯は福州の布景、連本劇形式の影響を受け、また京劇の武打、身段と鑼鼓点などを取り入れたことで非常に精彩な内容に変化した。当時の台湾では京劇は外江劇と称され、1910年代に台湾で流行したが、1920年代になるとその人気に翳りが出るようになり、台湾にやってきた京劇劇団は劇団を解散し、劇団員が歌仔戯劇団に参加したことで武打の要素が入ることとなった。 多くの劇場では歌仔戯の上演を行うようになり、観客は入場券を購入する形式が誕生した。また劇場は上演者による街中での宣伝活動を行うようになった。この時期、歌仔戯劇団は劇場で数ヶ月にわたる公演を行い、また舞台装置による演出も高度化し噴水が使用されることもあった。1915年頃、辜顕栄は日本人が経営していた淡水劇場を買収、新舞台と改称し多くの歌仔戯劇団を招待し上演した。 皇民化運動が推進されると、歌仔戯の衣装は和服に改められ、日本語による上演を迫られた時期もあったが、戦後には再び屋内舞台の歌仔戯は再び隆盛を迎え、1950年代には台湾全土で300を超える歌仔戯劇団が舞台で活躍していた。その後テレビ放送の開始により庶民の娯楽が変化、屋内舞台による歌仔戯は衰退していくことになる。
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