尾崎批判の始まり
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8月23日、伊東巳代治が社主を務める東京日日新聞が演説の内容を紹介し、「帝国は万々歳帝国たり。文相尾崎が未来に共和政体必無を期す可らずと放言せしは、不臣極れり」「万世一系金甌無欠の万邦に優る所以。尾崎の妄言は、国体と教育を賊ふ甚し、断乎責ざる可らず」と、尾崎が日本が共和制になると仮定したことが問題発言であるとし、尾崎及び内閣を批判する記事が掲載された。伊東巳代治は長州藩出身の元官僚であり、伊藤博文、井上馨、山縣有朋といった長州閥と深い関係を持つ人物であった。また8月24日から尾崎演説批判記事を掲載した京華日報は山縣の支援で設立された新聞であった。帝国教育会は事実無根であると反発する声明を8月23日のうちに出し、東京日日新聞および京華日報に対して記事の取り消しを求めた。8月25日、東京日日新聞は帝国教育会からの声明を掲載したが、演説には確かに「共和」という発言があったと指摘した。これを受けて8月26日に帝国教育会は演説の速記録を公表した。ところが翌8月27日、東京日日新聞は尾崎が会場から速記録を押収し、後に交付したものであると主張した。8月28日には東京日日新聞の速記者が帝国教育会にあった二種類の速記録を閲覧して掲載した。 東京日日新聞、京華日報、中央新聞といった尾崎批判者は、尾崎が共和制主義者であるという批判を当初行っていたが、次第に共和制の例示が不適切であるという批判が多くなっていった。一方で進歩党系の報知新聞や、福沢諭吉系の時事新報、陸羯南の新聞「日本」などは尾崎を擁護した。ただしいずれも「共和制」を例えとして使ったのは不適切であると指摘している。
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