小寺家の武将として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 10:22 UTC 版)
享禄4年(1531年)の大物崩れでは赤松政祐軍に従って出陣。当時の小寺家当主は政隆の子である則職だった。その際、近江源氏佐々木氏末裔である重隆は、坂東平氏梶原氏末裔である播磨高砂城主・梶原景則と先陣を争って一触即発の状況になったと「赤松秘士録」は伝えている。これは源平合戦の時分、宇治川の戦いで佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしたものの再来とされているが、真偽は不明。 天文14年(1545年)、則職の子・政職の代になると、小寺氏一門の小寺則隆や小寺家臣・八代道慶と共に姫路城の経営にあたる。後に単独で姫路城主となったという説もあるが、弘治2年(1556年)に職隆が姫路城主になったという説もあるため実際は不明。いずれにせよ職隆に家督を譲った後は御着城下の屋敷へ戻り、永禄7年(1564年)に同地で亡くなった。享年57。墓所は岡山県瀬戸内市長船町の妙興寺にある。近世大名となった筑前黒田家の実質上の家祖である。 享和2年(1802年)、福岡藩10代藩主・黒田斉清治世中に、福岡藩は姫路御着の地に墓所を新たに造営している(黒田家廟所(姫路市指定文化財))。この廟所には孫、孝高の母である明石氏の墓標も重隆と共に祀られている。 また、福岡市の光雲神社の摂社、堅盤神社に四神の一柱として奉じられ祀られている。
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