小倉の惣年寄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/02 02:07 UTC 版)
小倉藩の小倉城城下町建設は、慶長5年(1600年)の細川忠興の入城に始まり、紫川の左岸の町屋を西曲輪、右岸を東曲輪とした。そして、東西の曲輪に各1名ずつ大年寄を責任者として配置し、その上に町方総括者として総年寄を置いて、町内の諸事を町方の組織で処理させた。彼らは士分格の待遇を受け、苗字帯刀を許可され、大年寄に10石、総年寄に21石の役料と、各1人扶持の粮米が与えられたほか、総年寄には藩主への拝謁も許されていた。 正徳年間には、東小倉の町内を36ヶ所、西小倉を10ヶ所、中洲の中小倉を8ヶ所に編成し、それぞれ各2人の年寄(小年寄)を置いて、その中から毎月の責任者である月行司を複数名選出した(以上、「小倉市誌」より)。また、町人は間口の広さに応じた棟別銭を納めることとなっていた。 小倉の町と町方の役人は、町奉行の下で統制された。藩方の役人は町奉行の下に役町奉行1人・町方中役3人・定加勢2人・町方同心小頭4人を置いて統括した。同心は20人を1組として、2組に分かれて市中を見回り、治安の維持を職務とした。
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