富岡兵吉とは? わかりやすく解説

富岡兵吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/14 00:53 UTC 版)

富岡 兵吉(とみおか ひょうきち[1]明治2年3月3日1869年4月14日)/明治4年7月3日1871年8月18日) - 1926年大正15年)2月18日)は、日本の盲教育者。東京盲唖学校卒業後、日本で最初の病院マッサージ師として勤務し、さらに盲学校教師として鍼灸按摩の指導に取り組んだ。

生涯

明治2年(1869年)3月3日[2]/明治4年(1871年)7月3日[3][1][4]上野国利根郡薗原村(現在の群馬県沼田市利根町園原)の農家・富岡作次郎、みつの三男(第4子)として生まれる[2]。3・4歳のころ、眼病を患い視力が弱くなる[2]。12歳くらいまではかすかに物が判別できる程度だった[2]1880年(明治13年)3月に園原小学校下等科を卒業し、翌1881年(明治14年)に沼田市馬喰町の深代鷲五郎に入門し、按摩・鍼を習う[2]按摩をした旅人から東京盲唖学校のことを聞き、そこでの就学を決意する[要出典]1888年(明治21年)10月に東京盲唖学校に入学したが[2][3][4]、このころまでには完全失明していた。1889年(明治22年)3月に東京盲唖学校按摩科を卒業し、さらに鍼治科に学ぶ[2][3][4]1891年(明治24年)3月に東京盲唖学校鍼治科を卒業し、4月から東京帝国大学附属病院に日本で初めての病院マッサージ師として勤務する[2][3][4]1895年(明治28年)3月に 西山なおと結婚して[要出典]、その後2男2女を得た[2][4]1898年(明治31年)、勤務先を山田病院に替える[2][3][4]1912年(明治45年)に東京盲学校(東京盲唖学校を盲部門と聾唖部門に分離した盲教育部門。現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)の嘱託になり[2][3][4][1]警視庁鍼灸按摩試験委員、文部省盲教育講習会の講師を務める[2]1913年大正2年)に東京盲学校訓導になり[2][3][4]、同年三宅秀大沢岳太郎・寺田高堂とともに文部省経穴調査委員になる[2]1916年(大正5年)[2]/1918年(大正7年)[3][4]東京盲学校教諭。1917年(大正6年)に著書『日本按摩術』を刊行する[2]1920年(大正9年)、東京盲学校の同窓会理事長になる[2]1921年(大正10年)に点字著書『点字存稿集』を出版する[2]1923年(大正12年)関東大震災で自宅が全焼したが、同窓会会員の罹災救護に励む[2]1926年(大正15年)2月18日に急性肺炎のため逝去した[1][4]。57歳であった[2]1938年昭和13年)2月13日には、東京盲学校講堂で、奥村三策先生二十七回忌、富岡兵吉先生三回忌の追悼式が行われ、かつて教師として教え子に影響を与えた2人の事跡が偲ばれた。

生地とその時代背景

富岡平吉の生地は、沼田市の東十数キロにあたり、今はダムに沈んでいる。上野駅から高崎駅まで汽車が開通したのは1884年(明治17年)であり、これが渋川駅まで開通したのは1921年(大正10年)であった。したがって、富岡平吉が盲唖学校へ行くためには、居住地から高崎駅まで40kmほどを歩く必要があった。現在では、視覚障害者の学習や読書において不可欠な点字であるが、ようやく、富岡兵吉入学の前年1890年11月に、石川倉次考案の日本点字の採用が決められたばかりであった。したがって、まだ点字本はなく、口伝による学習が中心だった。

日本初の病院マッサージ師

1974年(明治7年)に医師に関する制度が敷かれたが、鍼・灸・按摩は医療に入れられず、民間療法に転落させられた。しかし、マッサージ治療の考え方は西洋の医学にもあったので、マッサージの効果と必要については、理解されていた。そこで、盲唖学校に「マッサージをできる者が欲しい」という申入れがあった。マッサージについては、鍼按の初代教諭だった奥村三策が、ドイツのマッサージ書を訳してもらって教えていたが、まだ十分な知識と訓練が行われていなかった。しかし、校長小西信八と、奥村三策は相談の上、富岡平吉を推薦することとし、富岡もこれを受け入れて、日本初の病院マッサージ師が帝大病院に誕生することとなった。

年譜

  • 1869年4月14日 - 上野国利根郡薗原村で生まれる。3~4歳のころ、眼病を患い視力が弱くなる
  • 1880年3月 - 園原小学校下等科を卒業
  • 1881年 - 沼田町の深代方に入門する
  • 1888年 - 東京盲唖学校に入学する。この頃までに完全失明していた
  • 1889年3月 - 東京盲唖学校按摩科を卒業
  • 1891年3月 - 東京盲唖学校鍼治科を卒業し、4月から東京帝国大学附属病院に日本で最初の病院マッサージ師として勤務する
  • 1895年3月 - 西山なおと結婚し、その後2男2女を得る
  • 1898年 - 勤務先を山田病院に替える
  • 1912年 - 東京盲学校嘱託になる、警視庁鍼灸按摩試験委員になる、文部省盲教育講習会の講師を務める
  • 1913年 - 東京盲学校訓導になる、文部省経穴調査委員になる
  • 1916年 - 東京盲学校教諭になる
  • 1917年 - 著書『日本按摩術』を刊行
  • 1918年 - 高等官八等正八位[2][3][4]
  • 1920年 - 東京盲学校の同窓会理事長になる、高等官七等従七位[2]
  • 1921年 - 著書『点字存稿集』を出版する
  • 1922年 - 高等官六等正七位[2][3][4]
  • 1923年 - 関東大震災で自宅全焼、同窓会会員の罹災救護に励む
  • 1925年 - 高等官五等従六位[2]従五位[3][4]
  • 1926年2月18日 - 急性肺炎のために逝去、享年57

著書

  • 『日本按摩術』
  • 『点字存稿集』点字出版

脚注

  1. ^ a b c d 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年11月1日、366頁。doi:10.11501/12189010 (要登録)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 利根村誌編纂委員会 編『利根村誌』利根村、1973年4月10日、835-838頁。doi:10.11501/9640347 (要登録)
  3. ^ a b c d e f g h i j k 群馬県盲教育史編集委員会 編『群馬県盲教育史』群馬県盲教育七〇周年記念事業実行委員会、1978年11月11日、967-968頁。doi:10.11501/12122603 (要登録)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 群馬県教育史研究編さん委員会編さん事務局 編『群馬県教育史』 別巻《人物編》、群馬県教育委員会、1981年3月30日、605-606頁。doi:10.11501/12114277 (要登録)

参考文献





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