寂厳大和上による『千手寺縁起』
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「千手寺 (岡山市)」の記事における「寂厳大和上による『千手寺縁起』」の解説
岡山を代表する高僧で近世四大書僧の一人、真言密教の法流である新安祥寺流・三宝院房玄方を相承した寂厳大和上(元禄15年9月17日 - 明和8年8月3日・その法統に釈雲照大和上も連なる)によって宝暦10年(1760年)に記された『千手寺縁起』によると、千手寺は大内田弥陀八幡宮の別当職を務め、天神山 天満宮(菅大神)の祠は千手寺の鎮守であり、山林は寺有林であったという。また、千手寺は、かつて庄中村にあった曼荼羅寺から分かれた大内田の大蔵坊・上庄村の興性寺・庄中村の浄土坊・下庄村の宝性寺(後に宮内・普賢院「預かり」となると記されている)の四院をまとめ千手寺結衆となし、曼荼羅寺什物だった涅槃軸を祭祀したという(千手寺涅槃軸の由来)。寂厳大和上と歴代千手寺住職は親しく、『千手寺縁起』によると、千手寺歴代住職のうち、専栄・京算とは懇眷(親しい同門の意味)、一實・正観は門下であったと記されている。
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