家政婦・画家
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1901年に修道院を出て、再びコンピエーニュで、次いでジュスタン=ショッセで家政婦として働いた。1904年にサンリスに移り住み、パリ通り10番地のムーイ家の住み込み家政婦となった。1906年、ピュイ=ティフェーヌ通り1番地にアパートを借りて一人暮らしを始め、通いで仕事をした。40歳を過ぎていたが、絵を描き始めたのはこの頃であり、守護天使のお告げを受けてのこととされる。最初は家具や皿、段ボールや板に絵を描き、やがて小さなキャンバスを使うようになった。絵は気に入った人に無償で与えたり、食糧と交換したりした。昼は働き、夜は小さな聖母マリア像の前でランプを灯して絵を描いた。彼女は、「こういうことすべて(絵を描くこと)をするのは、聖母マリアのため。私は主に夜、絵を描く。街が眠っているときに。私の静物画は善き神と聖母への贈り物のようなもの。だから私は天国へ行く。太陽は神。そしてそれは天国の果実。私には天国はこんなふうに見える」と語っていた。画材を買うゆとりのなかった彼女は、絵具も、豚の血やろうそくの蝋、聖油などを使ってすべて自分で調製した。唯一、白だけは近くの薬局・雑貨店でリポラン社製の光沢のある塗料を買った。
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