完成後の峰山町丹波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 10:22 UTC 版)
大溝ができるまでの峰山町丹波の土地は貧しく、よその村では「嫁にやろうにも、丹波の郷にはやるな。山に木はなし、草はなし」と子守歌がうたわれたが、この後の丹波ではこの子守歌に対し、「嫁においでよ、丹波の郷においで、山に木はなし草もないけれど、年貢いらずの田がござる。」と、返し歌を歌ったという。 工事が失敗したら首を差し出すと誓っていた伊左衛門は永らえたが、里人は「矢田や丹波の郷の田開き疎水 首出せ 杭出せ 公役(やく)出すぞ」と歌った。伊左衛門は1676年(延宝4年)11月11日に死去(法名は光外宗本居士)、ともに支えた妻は1677年(延宝5年)3月16日に死去(法名は心厳妙円大姉)した。21世紀初頭においても、命日には丹波区長ら村の役を担う住民が墓参りを行う。 1937年(昭和12年)、丹波区実行組合有志は、伊左衛門の功績をしのび、丹波の大溝を一望できる村役場の裏山(愛宕山)に「大溝樋越開祖記念」碑を建立した。円柱型の碑文の基台部分に、伊左衛門をはじめ、峰山町丹波の農業用水の確保に貢献した4名の法名が刻まれている。この4名のなかには、1748年(寛延元年)に小字由里の口堤溜池の水を小字桜内に赤坂川を樋越として通すとともに、小西川の水を逆流させて田地に水を引くことも計算された樋越の開発を手掛けた助右衛門も含まれる。
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