学館(学生会館)闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 09:57 UTC 版)
「法政大学文化連盟」の記事における「学館(学生会館)闘争」の解説
黒ヘルノンセクト系の法大全共闘は、サークルボックスを含む学生会館建設にあたり「三条件六項目体制解体・学館自主管理」を掲げ、一文連のサークル共闘会議など、法政大学全共闘の主力を担っていった。 また、当時62年館(市ヶ谷地区、現:市ヶ谷田町校舎)を拠点にしていた日本共産党系が運営していた大学生協について、学生会館学生連盟の総会が学生会館(学館)からの排除を決めた。その後、1973年6月19日夕刻から、九段会館で開催された不破哲三の集会に集まった民青部隊と本校58年館835教室に潜入していた民青部隊が、ノンセクト系の法大全共闘と激突し、市ケ谷キャンパス正門と55・58年館前などで、竹ヤリ、投石によるゲバルト戦が繰り広げられた。その後、法政大学の市ケ谷キャンパスはロックアウトされ、飯田橋・市ヶ谷一帯は出動した警視庁麹町署・機動隊によって厳戒下に置かれた。その後、法大全共闘によって、一文連サ共闘など多くのサークル員が参加した数次の泊まり込みによる「夜間ロックアウト粉砕・三条件六項目解体闘争」が行われてきた。1973年11月14日、自治会・サークル員を中心に泊まり込み闘争に決起、70数名の逮捕者を出し、法大学館闘争の主導権を握った。これらの闘争によって翌1974年、学生会館学生連盟を主体とした「学館の学生自主管理」が実現した。
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