子規庵の乾び糸瓜の涙跡
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この句は2003年の1月に根岸の子規庵を訪れたときのものであろうか。子規庵といえば糸瓜、そんな句はこのところとみに多いように思う。しかし作者はその枯れた(乾び)糸瓜に涙の跡を見たのだ。そうした句はこれまでになかったように思う。その涙とはカリエスで苦しんだ子規の涙であろうし、また作者自身この時期すでに「色鳥が零してゆきぬ癌の種」の句があるように癌を宣告されていたこととも重なるのだろう。 カリエスは結核の二次感染により骨が慢性的炎症によって部分的に腐り破壊された状態という。背や腰がひどく痛む。しかも子規は排膿という苦しみがあった。子規の絶句となった糸瓜三句のなかでも、私は次の一句をあげる。 糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな 正岡 子規 は、自身を仏と冷徹にみなしている。作者は子規に思いを寄せつつも、また自身を振り返っているのだ。 短い青春と晩年とが重なっている子規には恋の句はない。それも切ないことだ。 糸瓜忌や子規全集に恋あらず 加藤 楸邨 鬼灯市や子規に恋の句あればなあ 松田ひろむ 作者、山中蛍火(けいか)は情の作家であり、その句は深い陰影を湛えていた。私は句集『冬花火』の「序にかえて」で、「蛍火さんの句風だが、それが変容を見せ始めるのは、癌を宣告されたあたりなのだろうか。生と死に関わる秀句が続々と登場するようになる。」として次の句などをあげている。 ソフトボールほどの夏柑もう抛れぬ 百年後薫風浴か何なりと この銀河どこかに命どこかに滝 この句集名の「冬花火」は任地だった埼玉県秩父の夜祭によっている。 山中蛍火は、営林署の職場俳句の時代に福田蓼汀の指導を受け、のちに野澤節子の「蘭」、古沢太穂の「道標」を経て「鴎座」顧問同人。2007年9月6日没。 蛍火さんの句は、いまも「冬花火」のように、ひそやかに鮮やかに夜空を染めている。 |
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備 考 |
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