姶羅郡の消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 01:36 UTC 版)
荘園の発達に伴って、姶羅郡は鎌倉時代より文献上から姿を消す。1197年の『大隅国図田帳』には姶羅郡はみられず、代わりに荘園として鹿屋院、串良院、そして姶良荘、姶良西俣がみえる。姶良荘は旧吾平町、姶良西俣はのちの西俣村(現在は小学校の名称として残存)にあたる。 のちに肝属郡を拠点とする肝付氏が当地へ勢力を拡大し、その過程において姶羅郡は肝属郡に統合されたものとみなされている。 江戸時代に入ると島津氏(薩摩藩)の支配下となり、鹿屋、串良、姶良、大姶良の各外城(1784年以降は「郷」)は肝属郡所属とされた。江戸時代後期の『三国名勝図会』では吾平山上陵の解説において、姶羅郡を消滅した郡として扱い、姶良郷(旧吾平町、現鹿屋市)、大姶良郷(旧大姶良村、現鹿屋市)を往時の面影を残す地名として紹介した。 現代においても大姶良は鹿屋市の地域名として残る。姶良は1947年の町制施行に伴い「吾平」と改称したものの、河川名(姶良川、肝属川の支流)としては現存している。
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