天竜と合気道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 04:55 UTC 版)
前述のように天竜は1937年に満州に渡った。満州国武道会の常務理事として相撲の普及をはかる目的であった。1938年春に日本より武道家を招聘して満州国高官に試合や演武を披露する試みを行った際、合気道の開祖植芝盛平が井上鑑昭を伴って参加した。説明演武の際に植芝は天竜に腕を持たせたが、天竜は押さえることが出来ず投げられてしまう。天竜はその技に感服し植芝に弟子入りを申し出て了承され、三ヶ月間の間満州国より日本に出張し集中的に植芝の稽古を受けている。これは植芝が力士としての天竜の実力を鑑みて「三ヶ月も稽古すれば充分」と判断したものである。当時道場には塩田剛三が内弟子としており、仲が良かった。 戦後満州から帰国した天竜が開店した餃子料理店「銀座 天龍」に植芝を招いて会食したこともあったという。
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