大澤真幸の批評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 09:06 UTC 版)
「さようなら、私の本よ!」の記事における「大澤真幸の批評」の解説
社会学者大澤真幸は、まず「おかしな二人組」三部作は、第一作『取り替え子(チェンジリング)』で戦後の起点にあった挫折が塙吾良の自殺を引き起こし、第二作『憂い顔の童子』で戦後のターニングポイントの六〇年代の挫折が古義人の(意図せざる)自殺未遂を引き起こしたことを指摘する。そして本作で描かれるのは9・11以降であり、それぞれの作品が三つの画期に対応するとした。そして本作において三島由紀夫(作中ではミシマ)の自決が取り上げられるが、三島の自決は、戦後の当初になされるべきであった右翼の蹶起と関連しており、同時に、六〇年代の政治運動の挫折の最終産物(の反面)であることから、本作は戦後史にたいする大江的な総決算として提出されていると解釈できるとした。 また、本作でネグリ=ハートのマルチチュードを想起させる諸個人の暴力蜂起が描かれるが、これはアルカイダがニューヨークでやったことと変わらないように見え、この小説は自己否定的で悲劇的な方法にしか希望はないということを述べているように一見思えるが、そうではないとする。暴力が、結局は絶望にしか至らないのは、それが勝者と敗者を分かち、勝者の歴史しか紡ぐことがないからであると述べ、本作は暴力が帰結する「勝者/敗者」の分割に動揺を与える仕掛けとして「おかしな二人組」を組み込んでいるとする。本作では武とタケチャンの「おかしな二人組」のタケチャンは死んだが、生き残った武は、タケチャンの経験を引き継ぎ、代わりに生きることになる。「おかしな二人組」により未来に己の希望や憧れを繋ぐ生者を有することで、敗者=死者は生者の内に復活して絶望は希望に転換するとした。
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